糸井 |
ルールの話は、ロックミュージシャンが
ボロボロの服を着てることと
同じかもしれませんね。
たとえばローリング・ストーンズはステージで
破れたようなTシャツを着てるけど、
考えてみたら彼らは大金持ちです。
直前まで着ていた服をボロに着替えて
「自分たちは自由。大衆とともに」
という表現をしているのですから、
あれはなかなか覚悟が要ると思います。 |
横尾 |
目立った存在だけれども、
目立たない大衆の一部になる、なりたい──
いわば、自分を消してしまいたいという
気持ちの現れと裏腹に主張したい。 |
糸井 |
ああ、そうかもしれませんね。 |
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横尾 |
目立つ存在のやつが、
その反対の存在になりたいと言いながら、
「お前たちとちがうメッセージを
出してるんだ」
なんていうことは、すごい矛盾だよね。 |
糸井 |
ロックスターは、そこの矛盾で
やっていくんですよね。 |
横尾 |
その矛盾がまた、ああいう音楽を作らせる。
だけれども、
ローリング・ストーンズもビートルズも
デビュー当時からいままで、
どんなに変わったのかというと、
基本的には変わってないんですよ。
あれが、演歌みたいになっちゃったとか、
ジャズみたいになっちゃったとか、
クラシックになるとか、
もう歌わなくなっちゃったとかさ、
そういう変わり方だったら
彼らは芸術家だね。 |
糸井 |
それは、ないですよね。 |
横尾 |
もしそういうふうに変わっていったとしたら、
“ロッカー”と言っても
いいと思うんだけどさ。
マイケルみたいに黒人が白人に変わるほど。 |
糸井 |
ほとんどが商業的成功中心の考え方だから。 |
横尾 |
たいていが、そうでしょう。 |
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糸井 |
人が支持してくれることが
自分の存在意義になっちゃって、
主と客がひっくり返ります。
だから、横尾さんが
はまりそうになるとはまんないように
いつも逃げ回る、その意味がよくわかります。 |
横尾 |
だけどね、身の安全を確保するためには
はまってしまったほうが
いいんですよ。 |
糸井 |
ええ。その中で上達する、という道も
ありますからね。 |
横尾 |
だけど、自分にとってのほんとうの身の安全は、
やっぱりそこから離れていくことでしょう。
自分はいったい、
社会的安全を求めたいのか、
自分の個人的安全を求めたいのか。
そのどちらかと問われれば、もう当然、
世の中のルールに合わないほうへ
行きたいに決まってるわけですよ。 |
糸井 |
横尾さんは「行ききれる」というふうに
考えていらっしゃいますか? |
横尾 |
そのためには
ビジョンを持たないとできない。
行けないんじゃないかなと
思いながらだったら、行けないよ。
そうしたらもう、世俗の世界、体制の世界に
これでもかというぐらいに
どっぷり入ったほうがいい。 |
糸井 |
うん、うん。
世俗の道も、また同じように
通じますからね。 |
横尾 |
いや、ほんとうにそうなのよ。
ヘッセの『シッダールタ』の
シッダールタとゴビンダみたいにさ。
読んだことあります? |
糸井 |
いや、ないです。 |
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横尾 |
シッダールタとゴビンダは
若いお坊さんで、親友なの。
ひとりは仏陀に帰依し、悟りを求める。
もうひとりは、修行に限界を感じて、
仏門から出る。
豪商の番頭かなにかになって、
娼婦の家に転がり込んで子ども作って、
メチャクチャな生活をするわけ。 |
糸井 |
正反対の道を取ったんですね。 |
横尾 |
やがて、シッダールタとゴビンダは再会するの。
「実はインドで
ものすごく悟ったやつがいる。
そいつは筏の船頭さんらしい」
という噂が流れて、
ゴビンダが会いに行ったら、
別れた友だち、シッダールタだった。 |
糸井 |
ああ、なるほど。 |
横尾 |
徹底的に世俗にどっぷり飛び込んで、
やりたい放題やって、
そこで自分の自我を徹底的に出し切って
私を滅する。
結果、彼は
自分では気がついてないのに
仏陀になってたわけよ。
そういう生き方もあるんです。
そして、どちらかというと、
そっちのほうが早い。
だけどさ、飛び込む世俗の世界が
ものすごい世界だったらいいけども、
そこが中途半端じゃねぇ。 |
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糸井 |
はい。何十年、いろんなことを
見たことは見ましたが‥‥
そうでもなさそうですよね。 |
横尾 |
たとえばもっと地獄地獄していれば、
おもしろいかもわかんない。
「そこじゃないものがなにか
ほかにあるんじゃないかな」
と、とらえることだって、できるわけです。
でもぼくは、宗教的な世界を自分で設定して
そこに行こうとはまったく思ってない。 |
糸井 |
親鸞の非僧非俗のように、
坊さんでもなければ
俗人でもないという場所があったとして、
「では、それはなんなんだ?」と
まだ人は聞きたがります。
だけど、そこで話を終わりにして、
どっちでもないんだよと言ったほうが
ほんとうはいいんでしょうね。 |
横尾 |
どっちだっていいじゃない。
我々の中には悟性があるけれど、
悟ってもよし、
悟らなくてもよし、
その段階に到達してない人間が
求めても時期尚早。 |
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糸井 |
親鸞は、結局
「どっちでもいい」
「南無阿弥陀仏と言うだけでいい」
というところへ行きましたよね。
だけど、そこからまた
差をつけたい人が出てきた。
「南無阿弥陀仏は心から言うことが大事だ」
「死ぬまで言うことが大事だ」 |
横尾 |
「どっちでもいい」は
親鸞だけにしか言えないことばでさ。
親鸞に帰依した人たちは言えないよ。
やっぱりどこかストイックになっていく。
そして親鸞から離れる。 |
糸井 |
そうですね。 |
横尾 |
みんな、
どっちでもいいということを、
どっちでもよくなく、
勉強して学んでいくわけだからさ。
(続きます!!!) |