「寛容の世界」への道のり(6月12日)

・今年になって、まだすぐのうち1月5日に、
 この『今日のダーリン』に、
 免疫を研究していた学者の多田富雄さんのことを書いた。
 最晩年に、全身の筋肉が動かせなくなった多田さんが、
 特殊なマシンの手助けで、
 「たましい」をしぼり出すように発したことばが、
 こういうものでした。
 
 <長い闇の向こうに何か希望が見えます。
  そこには寛容の世界が広がっています。予言です。>

 多田富雄さんは、「現在」を、
 長い闇ととらえていたことがわかります。
 そして、その闇を抜け出す希望の光は「寛容」だ、と。

 そして、正月の間、いつもより落ち着いて
 ものを考えていたぼくが、この考えに、
 とてもよろこびを感じていたことも、よくわかります。
 「寛容の世界」のほうが、うまくいっているんだと、
 ゆったりと証明してみたい、というようなことを、
 新年のぼくが言っています。

 そして、その文章を書いてから2ヶ月後、
 それは、いまから3ヶ月前、3月11日がありました。
 ぼくの考えは、その日をはさんでも変わっていません。
 いまある困難も、いまある悲しさも、やがてくる
 「寛容の世界」への道のりだと思えるのです。
 なにかがあったから変えねばならないことでなく、
 人の生きる場での、ほんとうのことを、
 多田さんは見ていたのだと思うからです。

 ただ、こういうふうに同じことを言っても、
 読む人の意識は、大きく変化しているかもしれない。
 「それどころじゃない」という声もよく聞こえます。
 いまは「非寛容」こそが大切である、
 闇はさらに深くなったのだから、という人もいそうです。
 ならばこそ、多田さんの「寛容」を噛みしめたいのです。
 技術と、政治、倫理のダメだったところを、
 強く直したいと思うことと、
 「寛容」が否定されることは、ちがうと思うのです。
 
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
正月、ぼくは「寛容」に、ユーモアとルビを振りたかった。

「今日のダーリン」より