「見えないもの」の強さと恐ろしさ(6月30日)

・「見えないもの」こそが、強い力を持つ。
 このことについて、何度も考えさせられました。
 人を思いやること、なにかを望むこと。
 かたちにはならないけれど、信じていること。
 「見えるもの」はこわれるのも見えるけれど、
 「見えないもの」は、それも見えません。

 「見えないもの」を信じることは、
 「見えるもの」の行き詰まりを突破するための、
 大きな希望でもあります。
 「見えないもの」の大きさを、
 いちばん感じているのが、いまの時代に、
 復興に立ち上がっている人たちだと思います。
 
 ただ、「見えないもの」の広大で強力な世界は、
 いいことばかりでもありませんでした。
 福島の原子力発電所の事故が、
 周囲に、周囲の周囲に、どういう影響を与えたか。
 それも「見えないもの」の世界です。
 ここから、ここまでの地域が危険だと言っても、
 その境界線は「見えないもの」です。
 どれくらいの放射線量が、どういう影響を与えるか。
 100だ、20だ、1でもないほうがいい‥‥。
 数字と説明をめぐって言い争っても、それも、
 からだには感じられない「見えないもの」です。
 
 「見えないもの」の恐ろしさは、
 脳のなかで抽象的に判断するものなので、
 地震や津波の被害と、ちがったものになります。
 どこがどうなれば「解決」なのか目に見えません。
 見えるのはやっぱり記述される数字やことばだけです。
 途方もないがれきも、見えるから片づけられるのに、
 「見えないもの」は、片づいたことも目に見えません。
 
 福島県浪江町の方々の話を、昨日お聞きしました。
 地震と津波の直接の被害を受けた地域も含めて、
 終わりも見えにくい「見えないもの」との戦いです。
 ぼくらに、なにができるのか大きなことは言えませんが、
 まずは、お会いしてじぶんの耳で聞いた話を、
 こころのなかにゆっくり沈めて、考えようと思います。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

「今日のダーリン」より