「当然のように大いにちがう」(7月14日)
・地球がまるいだとか、なにを言ってるのかわからん。
世界なんてもののは見たことがないし、
もっと言えば、日本なんて広い土地は、
ひと目では見えないから、ほんとにあるのかわからない。
‥‥ぼくらの身体は、そう感じているんだと思います。
世界なんてものがあること自体、ほんまかいな、です。
知識として、地球のまるさや、世界というものの存在、
日本というひとつの単位を知るわけです。
そっちのほうが、どうやら事実らしいので、
感覚として納得できないまま、
身体のほうもしぶしぶ従っているのでしょう。
付け焼き刃の、ぼくの知識によれば、
人間は、120人くらいの集団が、
いちばん生きやすいんだとか。
たぶん、120人くらいの集団で生きてきた歴史が長くて、
それに適応するようになったんじゃないかな。
だから、身体的な感覚としては、
120人より多くの人たちが、あれこれ考えたり、
あっちの利益は、こっちの損失みたいなことで
駆け引きしているような社会は、
頭ではわかっていても、腑に落ちないんだと思うんです。
そして、頭でわかっていることというのは、
考えにしても、数字にしても、予測や判断にしても、
どういう角度から、どう見るかによって、
まったくちがったものにとらえられるわけです。
しかも、判断のちがいが感情につながったりすると、
どこまでも複雑にもつれていってしまいます。
福島で起った原発の問題も、
判断する人が住んでいる場所や、周囲の環境によって、
判断の基準がまったく変わってきます。
ある人と、ある人が考えること、感じることが、
「当然のように大いにちがう」ということを、
じぶんの考えのなかに組み込まないと、
解決の道をいっしょに歩めないと思うんですよねぇ‥‥。
「わからない」という空白もたっぷりふくめながら。
今日も『福島の特別な夏。』を、ぼくも読みます。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。 |