「木を植える」というのはどうだろう。(9月2日)
・「木を植える」というのは、どうだろう。
ふと、そう思いつきました。
今年、2011年という年に、東北ばかりでなく、
全国どこでも、木を植えるというのどうでしょうか。
失ったものは、たくさんあります。
それは数えきれないほどあるのですが、
その空白に、建物ができたりするだけでなく、
ついでのようにでもいいので、木を植えるのです。
沖縄でも北海道でも、植えられそうな場所に木を植える。
記念樹だと思って、植える。
庭に一本でもいいし、街路樹としてでもいい。
新しい並木をつくろうというつもりでもいい。
長い時間、このことを憶えていようと思うから、
木を植えて、樹木が生長するのを見続ける。
子どもの背丈にも足りない苗木を、
たとえば学校の庭に一本でも二本でも植える。
お金もたいしてかからなそうだし、簡単なことです。
2011年、この国には大変なことがあった。
そのことを心に刻むばかりでなく、
うれしいことに変えられるようにという記念樹です。
ひょろっこい苗木が、頼れるような太さになったころ、
「あの震災の年に植えたんだよね」なんて、
ちょっと懐かしむくらいの気持ちで、
その木を見ることになるでしょう。
きれいな花をつける木だったら、
花の咲く時期には、うれしそうに人々が集まるでしょう。
植えられた木と同い年の子どもが、おとなになったころ、
「どういう思いで植えたんだろうね」なんて、
いまのおとなたちの気持を想像するかもしれません。
落ち葉の掃除が、ちょっと迷惑をかけるかもしれない。
日差しの強い夏には、日陰をつくってよろこばれるかな。
小鳥やセミの休憩所にもなるんじゃないか。
たくさん山に植えられた木だったら、
切られて何かのお役に立ちはじめるかもしれない。
ふと、思ったんです、未来を植えられるぞって。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。 |