「津波てんでんこ」(11月20日)

・いろんなものごとを考えるときに、
 「わたしは、なにをするのか?」が見えてくるまでは、
 それを探してうろうろすることになります。
 
 例えば、あの日の、あの地にいたとしたら。
 「津波てんでんこ」の言い伝えにしたがって逃げる。
 それは、たくさんの「わたし」のするべきことでした。
 誰にも人間らしい心情があるから、
 じぶんの命、仲間や家族の命、大事な財産‥‥と、
 救わなければならないものについて、
 いくらでも想像しますし、
 その大事さの順番についてもおろおろと迷います。
 
 その人間の優しさと弱さを、昔の人は知っていたから、
 その優しさや弱さが、助かる命を失わせてしまうから、
 「津波てんでんこ」という言い伝えのせいにして、
 「わたし」のことだけ考えて「勝手に逃げろ」と、
 「決まり」を残したのだと思います。
 
 そのことばを元にして、訓練をしていた人たちは、
 「わたしは、なにをするのか?」わかっていたのです。
 
・「わたしは、なにをするのか?」をわからないまま、
 騒いだり、批判していたりしているのは、
 実はなかなか苦しいことでもあります。
 いらだったり、腹を立てたりし続けることになります。

 じぶんにできることは、あまりにも小さい‥‥です。
 それは、きっとあの時期の自衛隊の人たちだって、
 あの時期のお医者さんや看護師さんだって、
 そう感じながら過ごしていたにちがいありません。
 でも、「わたし」を主語にして、動いていたのです。
 
 「わたしは、なにをするのか?」、そして、
 「わたしは、なにをしないのか?」。
 ぼくは、3月からずっとそれを探しては、
 たいしたことない力を、そこに使ってきたと思います。
 いまは、東京の仕事場で「わたし」がやることと、
 「気仙沼のほぼ日」で「わたし」がやることを、
 より具体的にして、歩みはじめているところです。 

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
あ、「わたし」、今日は髪を切りにも行かなくちゃ‥‥。

「今日のダーリン」より