心の根っこ(12月5日)
・吉本隆明さんが、「芸術言語論」というかたちで、
「言葉の根や幹にあたるのが沈黙だ」と言いました。
これは、ぼくにとっても、
何度も考えさせられていることです。
枝ぶりやら、繁る葉、花や実といったものよりも、
まずは根という「沈黙」が大事なのだと思うと、
いろいろのものを見る目が、ちょっと変わってきます。
花はもちろん、実も、枝も、みんな好きですけれど、
それらが、まったくなくなっても、
樹木は生きています。
根が残ってさえいれば、あらためてまた、
葉をつけ、花を咲かせ、実を結ぶことができます。
「気仙沼のほぼ日」の仕事を考えるとき、
いつでも、そのことについて考えます。
家や工場や、大事にしていたものが流された人たちが、
「まだやれる」と動き出せた理由は、
「まだ、根が生きている」、
という実感があったからだと思います。
枝や葉や花にあたるものが何なのか、
それを考えることも、これからの仕事ですが、
「根」ってなんだろうと、心底わかることが
いちばん大事なのです、おそらく。
それは、「人」だと思っていました。
「気仙沼」という樹木を想像したときに、
根っこにあたるのは、人だと思った。
だけど、もうちょっと考えたら、人は「幹」で、
人の「心」が根っこなのかもしれない。
そういう気がして生きたのです。
「心根(こころね)」っていうじゃないですか。
「言葉(ことば)」という葉が繁り、
「開花(かいか)」して「成果」という実をつける。
「人」のかたちをしていても、「心根」がなければ、
何もはじめられないんだよなぁ、と。
ぼくらは、「気仙沼」に通うようになって、
心の根っこってやつがあることを、たぶん、
見つけたんじゃないかなぁ。
「心」ってことば、なんか、なつかしい気さえする。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日」の根だって、人の「心」なんだと気づきます。 |