「人によろこばれる」(12月27日)

・「人によろこばれる」ということは、
 人間にとって、もう「本能」と、
 言っていいものじゃないでしょうか。
 
 「ありがとう」ということばを、
 たくさんの人たちが、あんなに好きなのも、
 「人によろこばれる」ときのことばだからでしょう。
 
 「ほぼ日」のなかでも、よく、冗談半分に
 「おれたち、ほめられたらなんでもしちゃうな」
 とか言いあっています。
 
 人間といっしょにするなとも言われそうですが、
 犬も、「おお、よくできたねー」という
 飼い主のよろこびの声をごほうびにして、
 いろんなことができるようになります。
 最近うちの犬は、散歩コースを引き返すポイントで、
 「ターン」と言うと素直に帰るようになったそうです。
 
 「人によろこばれる」仕事をしているという実感は、
 働くことをとてもうれしいものにしてくれます。
 叱られ、怒鳴られておぼえていく仕事も、
 (ぼくにはわからないけれど)あるのかもしれませんが、
 なにが「よろこばれる」ことなのか、
 だんだんわかっていく過程のほうが、
 のびのびした上達への道のように思えます。

 「雇用」ということばが、よく使われていて、
 うん、それはもう、ほんとうに大事なことだと思います。
 ただ、このごろ思うようになったんです。
 職の数と、人の数が合うだけじゃ、
 ほんとうの「雇用」にはならないんですね。
 むろん、職を持つというのは
 生活の手段でもあるのだけれど、
 同時に「人によろこばれる」という
 「本能」を満たしてくれるものでもあると思うんです。
 「人によろこばれない」仕事をしているのは、つらい。
 反対に、「人によろこばれている」という実感があれば、
 かなりの仕事は、やれるものなんじゃないかなぁ。
 気仙沼に通うようになって、特に思っていることです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

「今日のダーリン」より