「じぶんだったかもしれない」(1月18日)

・昨日、『スコップ団』の記者会見におじゃまして、
 団長の平さんと、いろんなことを話しました。
 そのあと新幹線に乗ってからいろいろ考えてました。

 津波で泥に埋まってしまった家を、
 何軒もきれいにしてきたチームのなかには、
 じぶん自身が、親しい人を失った人も混じっています。
 助けられる側、励まされる側の人でもある人が、
 手助けしたり励ましたりしているわけです。
 どっちがどっち、と決まってるわけじゃない。

 そして、そこに集っている仲間たちだって、
 助ける側にいるのは、偶然かもしれないんですよね。
 彼の家が無くなったかも知れない、ということ。
 わたしの命がなくなったかもしれない、ということ。
 そう考えていくうちに、現実はそうじゃなかったけれど、
 あの日、あの場所で、あの人に起ったことは、
 この日、この場所で、わたしに起ったとしても、
 なんの不思議もなかったんだよなぁ、と思えます。
 
 なぜ、手を差し伸べるんでしょうか、と、
 たくさんの人たちに、その動機がよく質問されます。
 いろんな答えがあるとは思うのですが、
 「じぶんだったかもしれない」から、という気持ちは、
 誰のなかにも、きっとあるんじゃないでしょうか。
 
 生きのびた人と、亡くなった人、特になにもなかった人、
 それは、たまたま決まったことでした。
 ぼく自身は、あの日、東京にいて、
 それからもぶつぶつ言ってはいるけれど、元気です。
 つまり、それは、東京大震災じゃなかったからで、
 その日に、あの場所にいなかったからです。
 失ったものも、ほとんどなくて、元気でやっています。
 運命がちがっていたら、いなかったかもしれない。
 その気持ちに囚われると身動きできなくなりますが、
 「じぶんだったかもしれない」ということは、
 こころのなかに、小石くらいのサイズでもいいので、
 いつでも置いておきたいと思うのです。
 助けてるのは、「じぶんだったかもしれない」人。
 だから、助けられていることとそっくりなんですよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
<じぶんで選べないことは、その人のせいじゃないです。>

「今日のダーリン」より