忘れるだの忘れないだのを超えて(5月8日)

・昨年の夏の終りくらいから、
 陸前高田「八木澤商店」の河野さんは、
 「被災地のことは、年が明けたら忘れられていく」
 と、危機感を語っていました。
 2011年に起こったことは、2012年になったら、
 少し気持ちから遠のくということはあるかもしれない。
 ぼくも、そういうことはあるかもしれないと思いました。
 それでも、実際に新年を迎えてみたら、
 どうやら、まだ人々のこころのなかに、
 被災地のことは、まだ根を張っているように見えました。

 そして、再び3月11日がやってきて、
 このときも河野さんは、
 「一周年が過ぎたら、忘れられる」と、
 真剣に考えていました。
 実を言えば、ぼくも、その危機意識は持っていました。
 だから、「忘れられつつある被災地」で、
 「なにを、どうやっていくのがいいか」
 真剣にそのことばかりを考えていました。
 でも、当日を中心にしたある期間、
 「忘れていません」というメッセージが、
 メディアにはあふれていました。
 被災地は、忘れられているどころか、
 また関心が高まっているかのようにさえ見えました。

 しかし、4月くらいになって、春を感じるようになると、
 なんとなく「忘れられたわけじゃないけれど」、
 被災した地域と、他の場所にいる人たちの距離が、
 遠くなってきたようにも感じられます。
 「冷たく見放される」というのとは、ちがうと信じたい。
 どういう関係を結ぶか、が、見えにくくなっている?
 なにを求められているが、イメージしにくくなっている?
 なんだか、新しい次元に入っているように思えます。

 ほんとうに、これからは「組む」んじゃないかな。
 学びあったり教えあったり、そして組んで、
 新しいなにかを生み出していく。
 東北の人たちの「できること」と、
 ぼくらの「できること」を組み合わせていく時期が来た。
 忘れるだの忘れないだのを超えて、組んじゃいましょう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そして、暖かくなってよかったなぁと、つくづく思います。

「今日のダーリン」より