「速い」「遅い」(12月2日)

・「速い」というのは、価値のひとつです。
 なにかの答えが速い。
 なにかつくるのが速い。
 「速い」を競うことは、いくらでもあります。
 最近でも、ぼくはよく、
 「うまい人のやることって、速いんだよなぁ」
 なんてことを、よく言っています。
 速く、速く、もっと速く、さらに速く、もっともっと。
 これは、みんなの望んでいることかもしれません。
 
 だから、なのでしょう。
 「遅い」ということが、かんたんに否定されがちです。
 遅くないとできないこともあるのですが、
 それでも、もっと速くできないかと考えてしまうでしょ。

 真っ暗な深夜にいて、日の出を待つ間。
 速く夜が明けないかとあせっても急かしても、
 太陽が顔を出すのを早めることはできません。
 そんなことは、たくさんあります。
 古いお寺などの柱のなんとも言えぬ味わいも、
 古酒や漬け物などの熟成も、急がせることができません。

 もっといえば、子どもの成長だってそうでしょう。
 1年にひとつずつしか大きくなりません。
 「急げませんか」「速くしなさい」ということが、
 通用しないものごとも、たくさんあるんですよね。
 このところ、「ほぼ日」では「編みもの」関連のこと、
 たくさんやっていますが、これもまったく同じ。
 「速い」を優先させていたら、いいものはできなそう。
 きっと、たのしみも奪われてしまいます。
 
 「遅い」ということが、つまり「時間」が、
 重要な材料になっていることっていっぱいあるんです。
 ちょっとずつ進めないと、できないことだとかね。
 これまでの社会が「ダメ」だとしてきたことのなかに、
 これからの仕事がたくさん隠れているような気がします。
 昨日、福島に行っててもあらためて思ったのですが、
 東北の「新しいなにか」って、不利だとされてきた
 「時間ばっかりかかる」ことのなかにありそう‥‥。
 ぼくらのやっているニットの仕事も、まったくそれです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「気持ちや時間というものの含め煮」は、超絶にうまいよ。

「今日のダーリン」より