2020年3月11日 若い3人、気仙沼へ行く。HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

岸田奈美(きしだ・なみ)

28歳。作家・エッセイスト。
Webメディアnoteでの執筆活動を中心に、
講談社小説現代などで連載中。
車いすユーザーの母、ダウン症の弟、
亡くなった父の話などが大きな話題に。
株式会社ミライロを経て、コルク所属。

いなくならない父のこと。 - ほぼ日刊イトイ新聞
Twitter
Note

気仙沼に行ってきた。

「ワンマン 気仙沼行き」と表示された列車の前で、
私は焦っていた。

すでに日の落ちた一ノ関駅で、待つこと40分。
ホームへ滑り込んできた列車の扉が、なぜか開かない。

なんでだ。
どういうことだ。合言葉でも必要なのか。
キョロキョロすると、ふいに開閉ボタンが目に入った。

ポチッとな!

扉が開いた。
ほっとしたのも束の間だった。

(撮影:岸田)

足を踏み入れると、オレンジ色の機械が鎮座していた。
乗車証明書発行機。なんだそれ。

なにが不安って。
「乗車の際は乗車証明書を必ずお持ちください」と書いてて。
「係員がいる時は切符をお求めください」とも書いてる。

えっ、なに、どっち?

私が知ってる列車のシステムじゃない。
とりあえず乗車証明書とやらをお持ちするか、と思ったが、
切符が出るらしき穴は銀色のフタでふさがっていた。

どないせえっちゅうねん。

そうこうしてる間に、列車は気仙沼へ向けて動き出した。
列車の中を見渡すが、車掌さんらしき人はいない。

あああ。どうしよう。
焦りをツイッターで書いてみたら、
糸井さんから返事があった。

「わからなくっても大丈夫。
乗ってるだれかが教えてくれるよ」

ほんまかいなと思ってたが、ほんまだった。

「ワンマン電車の乗り方」という
さっぱりわからん掲示物の前で、
スーツケースを持ってうろちょろしている私に、
声をかけてくれた人がいた。

れんげ色のロングカーディガンを着た、おばあさんだった。

「うふふ、都会の人にはわがらねーよね。
お姉さんはそのまま乗ってで大丈夫」

方言もあいまって、めちゃくちゃ心強かった。
ツイッターでもたくさんの人が
ワンマン列車の乗り方を教えてくれた。

見守られているっていうのは、すごく安心する。

私はおばあさんに助けてもらったことも、
ツイッターで報告しておいた。

そもそもなぜ一人で気仙沼へ向かってるかと言うと。
うん。まあ。あれだよね。
私がまた、息をするようにやらかしちゃったよね。

出発日を一日、間違えてたんです。
アホです。
発覚した時は、顔から色んな汁が出ました。

(撮影:かつお)

だから、22時を回って、私が一人で気仙沼駅に着いた時。
出迎えてくれた永田さんは
「到着しただけで上出来」と言った。

うーん、私もそう思う。

「降りてきたの、岸田さん一人だったね。びっくりした」

同じく、出迎えてくれた中神さんが言った。
私も、びっくりした。

乗ってきた列車を振り向く。
助けてくれたおばあさんを紹介したかったけど、
見当たらなかった。
ずっと起きていたのに、
おばあさんはいつ降りたんだろう。

あなたのおかげで心細くなかったです、と言いたかったのに。


先に到着していた人たちは、すでに夕食を済ませていた。
私はお弁当をもらった。やったぞ!

旅館の部屋で、ひとり食べることにした。

ワゴンサービスの牛タンジャーキーも、ずんだアイスも、
ぜんぶ我慢していたから。楽しみで仕方なかった。

(撮影:岸田)

牛タン、ほっけ、からあげ、梅のご飯。
一瞬でペロリ。
でもね、ペロリしたら、なくなっちゃうの。悲しいの。
しょんぼりしながら、箱を閉じようとした時。

(撮影:岸田)

も、もう一段んんんんんんん!!!!!
この時の幸福ったらない。
脳みそが、ジワワワ〜ン、って茹だってく感じ。

最初から二段だと知っているのと、
一段だと思っていたのが二段だと気づくのとでは、違う。
ぜんぜん違う。
はじまりが低いほど、
人は高いところから見る景色に感動する。
それと同じだ。たぶん。



翌、3月11日。

「若い3人」と称される、
りゅートリックス、かつお、岸田奈美が合流した。
奇しくも、龍と鰹と波という海にまつわる名を持つ者たちである。
オーシャンズ3だねと小声で言ってみたが、
誰も反応してくれなかった。

ところで、このオーシャンズ3、
とにかく全員もれなく忘れ物が多い。
私はコンタクトレンズを忘れ、
りゅーさんは動画編集で必要なイヤフォンを忘れ、
かつおくんは駅にスマホを忘れた。
忘れすぎである。

これだけ忘れ物が頻繁に起きると、逆に心が休まる。
一人じゃないんだって思える。
ホッコリしたものの、冷静に考えれば確実に負の循環である。

そして我々の忘れ物は、だいたい永田さんが助けてくれる。
永田さんが予備で持っていたコンタクトが、
たまたま私の度数に合っていた。
奇跡だ。

最終的にわれわれオーシャンズ3は
永田さんのことを「先生」と呼んだ。
美談のように聞こえるが、まあ、味を占めたのである。

朝食は、鶴亀食堂でいただいた。
世にもめずらしい、漁師さん向け銭湯にくっついた小さな食堂。

(撮影:かつお)

美味しすぎて、目が覚めた。
そもそも手作りの温かい朝食を食べたのが、久方ぶりだ。
急にこんな朝食を食らったら、脳がバグり散らかす。

(撮影:岸田)

特にこれ。メカジキの煮物。やばい。
カジキっつったら、ドンキーコングに出てくるやつ。
あんなとんがった鼻で、爆速で向かってくる魚を、
初めに捕まえて食べようとした漁師さんはマジですごい。
ドンキーコングより強い。

煮物は米を消費する永久機関と化して。
私は生まれて初めて、茶碗3杯おかわりした。育ち盛りか。

(撮影:かつお)

店員のえまさん(写真右)が、教えてくれた。

「この街は、魚があまり獲れないと、
目に見えて落ち込むんです。
だから漁師さんが元気になる場所にしたくて、
朝から気持ちいいお風呂に浸かったあと、
ワイワイお酒を飲めるお店を作ったんですよ」

えまさんは、
ここは漁師さんファーストです、
と誇らしげに言った。

「お酒飲んでる漁師さんの隣で、観光のお客さんが
『美味しい、美味しい』って言いながら、
獲れたてのカツオやメカジキを食べるでしょ。
そしたら、漁師さんもすごく喜んでくれるんです」

すごい。メカジキは米の永久機関であるが、
この店自体もまた、
漁師さんとお客さんの元気の永久機関だった。

私が絞り出した「美味ェェエェェ‥‥」という
瀕死のヒツジのようなうめき声も、
どこかの漁師さんに、届いていたのだろうか。

もっと本能のままに、叫べばよかった。

(撮影:かつお)

そのあと、気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館に行った。
震災当日まで、高校の校舎として利用されていた建物だ。

積み重なる瓦礫と車。浸水で錆びた備品。散乱する本。
地震と津波の被害が、校舎にはそのまま残っている。

自然の猛威の記録と、被災した人々の記憶を見た。
予想はしていたけど、圧倒された。

私は一つだけ、後ろめたかった。
周りの人たちは、鼻をすすったり、涙を流したりしていた。
それは当然の反応だと、私は思う。

でも、私は涙が出なかった。
理由はわからない。
湧き上がる、悲しさと恐ろしさは、確かな感情なのに。
自分がひどく冷めた存在に思えて、動揺した。

(撮影:永田泰大)

外の広場に滑り台の遊具を見つけて、滑るべく走り出した。
りゅーさんとかつおくんも、走り出した。

そんな二人を見て、実はほっとしていた。
自分だけが、外れた存在なのかと不安になったからだ。

(撮影:かつお)

お昼は、まるきで中華そばを食べた。
ここで糸井重里さんたちが現れた。
小さな子どもたちも一緒だ。
一気に騒がしく、愉快になった。
愉快すぎて、動けなくなるほど、食べてしまった。
中華そばも美味しい。

そのまま大所帯で、唐桑御殿つなかんへ向かった。
菅野一代さんが始めた民宿だ。

名物女将と言われている一代さんは、どんな人だろう。
ドキドキするヒマもなかった。
駐車場に到着するやいなや、
一代さんらしき人が玄関から飛び出してきたからだ。

(撮影:かつお)

「よく来たねえ!寒いから、さあさあ、上がって上がって」

広い和室に、ずらっと並べられた机と座布団。
腰を下ろすと、すごい速さでお茶と漬物が並べられていく。
都会のどんなチェーン店よりも速いぞ。すごいぞ。

あっと言う間に、地元の人や、
震災時にボランティアをしていた人、
移住してきた人など、たくさんの人々で席が埋め尽くされた。
ほとんど初対面だから、隅っこで固まっていた我々三人は、
これまたあっと言う間に、
お祭り騒ぎの中心へと引き込まれていく。

「どこから来たの?」
「これ食べな!」
「いい写真だねえ!」
ああ。これは、あれだ。親戚の集まりだ。
みんな知らんのに、そんなん関係なく、
距離が爆速で詰められていく。
世話を焼かれ焼かれ、お焦げができるレベルで焼かれる。
一瞬にしてその場の全員が親戚になった。マジか。

基本的にそこらのパリピよりずっと騒がしかった一団だが。
海へ赴いた一分間だけ、静まり返っていた。

(撮影:かつお)

14時46分。
全員で黙祷。
聞こえるのは、ものすごい風と、サイレンの音だけだった。

黙祷が終わったあと。
私はまた、泣けない後ろめたさを感じていた。

でも、その後ろめたさは、少しずつ消えていった。

(撮影:岸田)

みんなが、軽やかに笑っていたのだ。

「毎年この日になると集まってくれて嬉しい」
「この子はもう、こんなに大きくなったんだね」
「新しくDIYしてる部屋、見てってよ!すごいよ!」

その中でいちばん笑っていたのは、一代さんだった。
海から和室に戻ると、おやつを用意してくれた。

あずきほうとう、どんこ汁、ブラッドオレンジ、コーヒー。
どっから手をつけたらいいか、
まったくわからない組み合わせである。
一代さんは
「みんなが好きな美味しいものにしましたあ」と言った。
なんと、各自に気仙沼グッズのお土産までついてて。
おもてなしの全部乗せハッピーセットがここに爆誕した。

一代さんだけではなくて。
気仙沼で会った人たちはみんな、
こっちが圧倒されるくらいテンション爆上げだった。
あと、自分たちが作ってるものを全力で誇っている。

私たちは「美味ェから」「食べてみ」と
すすめられるがままに、
春場所を控えた力士と同じペースで5食は食っていた。

(撮影:かつお)

りゅーさんが、おもてなしのお礼に、
リフティングのパフォーマンスをぶちかましていた。
彼もそこそこテンションが高いのだが、
オーディエンスはさらに爆上げだった。

(撮影:かつお)

気仙沼が復興しているかと聞かれれば、私は答えられない。
街を車で走っていると、突然、なにもない景色が広がる。
東京のように、大きくて高い建物も見つからなかった。

だけど、そこに生きてる人たちは、元気だ。
一生懸命とか、頑張ってるとか、
そういう表現もしっくりこなくて。
元気と愛と美味いもんを、私たちにお裾分けしてくれるのだ。

ああ。
泣けない私は、それでよかったんだ。
辛い過去を変えることはできなくても、
人は捉え方を変えられる。
私がこの旅で出会った人たちは、
過去を怒りや憎しみではなく、
優しさと愛に変えた人たちだ。

お弁当の二段目を見つけた時、私だって思ったじゃないか。
幸せとは、相対的なものだと。
それは、他者と比べるということではない。
比べる相手は、いつも自分だ。
さっきの自分と、昨日の自分と、去年の自分と、比べてみて。
少しでも楽しかったら、前に進んでいたら、
それは幸せなのだ。



生きるために、忘れてはいけないことだ。



夜。鼎・斉吉での宴は、長く続いた。
ちなみにここで暴露するのもどうかと思うが、
私は魚が苦手だ。
刺身にいたっては、生臭さが苦手で、
ろくに食べたことがなかった。

(撮影:永田泰大)

そんな私が宴にて口走った迷言でお別れしましょう。

「口に含んだ瞬間、私は海の子だったと自覚する」
「食べるタイプの養子縁組」
「出汁に人格がある。いま出すべき時だとわかっている」
「刺身の旨味がやばすぎて顎の付け根に痛みが走った」
「白米の甘さにこめかみが耐えられていないので労災が降りる」
「こんな美味さを知る前の私を、
メモリーカードでセーブしておくべき」

(撮影:永田泰大)

さいごのさいごに。

一日中、私はスマホで文章を書いて、
りゅーさんはリフティングしながら動画を編集して、
かつおくんは写真を撮っていた。

お互い
「よくそんなスピードで、ずっと集中してられんね」
と言っていた。
なんつーか、呆れ半分、尊敬半分。

だけど、最終的には。

「それぞれ好きなことだから、
ぜんぜん苦じゃないんだよね」

これで落ち着いた。
好きなことで、好きな街の、
好きな人たちに楽しんでもらえたらな。

一抹の望みが叶っていればと祈って、
私たちは、旅を終えた。

(岸田奈美)

2011年3月11日、
どこでなにをしていましたか?

濁流に飲まれる街の映像を、呆然と眺めていた。
私はまだ、兵庫県で暮らす大学生だった。

ハッと思い立ち、Twitterを開いた。
小さな液晶画面のなかでも、濁流が起きていた。

ものすごい勢いで、投稿が流れてくる。

「浸水する家のなかにいて、逃げられない」
「一刻も早く、高台へ避難してください」
「義援金の募集をはじめます、振込先はこちらです」
「電話を使ってはいけない、回線がパンクする」
「物資が不足!カイロや毛布の寄付をお願いします」

あっというまに私のタイムラインは、
数々の“拡散希望”で埋め尽くされた。

それに対して「デマだ」「本当だ」と返信の応戦がつく。
なにが真実で、なにが嘘か、わからない。

ただ、そこに書かれているすべては叫び声だった。
まるで目に見えない濁流だ。

震災の翌日も、その勢いは変わらなかった。

すると、あるツイートが目に止まった。
機械的に動かしていた指を、ぴたりと止めた。

「避難所にいる車いすユーザーです。
車いすが津波に流されて、自分で動けません」

私の母も、車いすユーザーだった。
きっとこの人は、背負ってもらって逃げるのに精一杯で、
車いすを置き去りにするほか、なかったのだろう。

命が助かったとしても、自力で動くことができないのは、
どれだけ不安なことだろうか。心細いことだろうか。

母の姿と重なって、息が詰まった。

あわてて「避難所 障害」で、ツイートを検索してみた。

「老人ホーム職員です、車いすが足りません」
「車いすがガラスの破片でパンクして、使いものになりません」
「聴覚障害者です。アナウンスの内容がわかりません」
「目が見えません。白杖がないので、怖くて自分で歩けません」
「知的障害のある息子が、
避難所でパニックを起こしてしまいました」

障害のある人やその家族の、悲痛なつぶやきが聞こえてきた。
しかし、リツイート数がぜんぜん伸びていない。

「義援金」「毛布やカイロ」を募るツイートの
リツイート数はぐんぐん伸びている。
そこには「車いす」や「白杖」の文字は含まれていない。

私だ。
この人たちの届かない声が今、届いているのは、私なんだ。

そう思うと、いてもたってもいられなかった。

当時、私は大学に行きながら、
株式会社ミライロというベンチャー企業で働いていた。

ミライロの皆で集まって話し、その日のうちに決断した。

兵庫県にある車いすメーカーに電話し、
破片を踏んでもパンクしない車いすを用意してもらった。
その数、304台。

同時に、段ボール箱を持って大阪と神戸の街頭に立ち、
白杖や筆談ボードなど、障害のある人が必要なものを
購入するお金を募った。

でも、ものが届くのには、時間がかかる。
それまでは人の力で、どうにか助けるしかない。

私は「避難所にいる障害のある人を、
どうやって助けたらよいかわかる
マニュアルを作ります」と言った。

足が動かない人を、二人で安全に運ぶ方法。
目が見えない人を、スムーズに誘導する方法。
耳が聞こえない人に、伝わりやすい筆談の方法。
知的障害のある人に、わかりやすく情報を伝える方法。
精神障害のある人が、落ち着ける場所をつくる方法。

ものが届かなくても、周りの人がわかってくれたら、
障害のある人の不安は少しでも減らすことができる。

そう信じ、私は、Wordソフトで原稿を作りはじめた。
5時間ぶっ通しで、1万文字を打ち続けた。

打ち終わって、はた、と気づいた。
こんなに大変な時に、
人は長い文章を読む余裕があるのだろうか。

イラストだ。
このマニュアルには、イラストが必要だ。

でも私は、とてもじゃないが、
わかりやすいイラストが描けなかった。

片っ端から、絵が描けそうな友人にLINEを送った。
私はそれまで、想像を絶する連絡不精だった。
連絡を受け取った友人は、みんな、びっくりしていた。

「イラスト?いいよ、描くよ!ところで貸したノート返せよ」
「私は描けないけどお姉ちゃんに頼んでみる!
っていうか、なんでずっとLINE無視してたの?」
「俺でよかったら描くけど‥‥ほんまにごめん、誰やっけ?」

私の人でなし具合が浮き彫りになる返信ばかりだったが、
なんとか9点のイラストを確保した。
みんな徹夜で描いてくれた。泣きそうになった。

震災発生の2日後、マニュアルが完成した。
印刷をかけるより先に、画像データをTwitterに投稿した。

わかりやすいイラストと、詳しい説明が功を奏し、
またたく間にリツイート数が伸びた。

同じように障害のある人やその家族が、
共感と応援を込めて広げてくれて。
漫画家・井上雄彦さんなど、著名な人が後押ししてくれて。
東京新聞やNHKが、取り上げてくれて。

ついに避難所で過ごす人へ届いた。
私のもとに、リプライがあった。

「困っている私たちのことを、
忘れずに思いやってくれる人がいるというだけで、
すこし元気になりました。ありがとうございます」

こんなことしかできない自分の力不足が、情けなかった。
絆とか信じるとか、きれいな言葉も、嫌いだった。
マニュアルなんか作っても
迷惑なんじゃないか、と不安だった。

それでも、一人じゃないよ、って言いたかった。
気持ちが届いただけで、嬉しかった。

マニュアルは今でも、
WEBで1万人以上にダウンロードされている。
2016年、熊本地震が起こった時も、
いち早く新聞で引用された。

震災から1ヶ月後。
車いすが避難所に届いた。
配達は、男性社員が行くことになり、私は待つだけだった。

まだ、車と人がやっと通れる道があるだけで、
多くの建物は壊れたままだったそうだ。

車いすで外出なんて、まだできないだろう。
バリアフリーとはほど遠い現状に、辛くなった。

でも、その時、配達先の自治体の人から、
男性社員が持ち帰ってきたメッセージが、
今も私の記憶に焼き付いている。

「地震と津波で、建物の多くは壊れてしまいました。
でも、今度は、一からつくることができます。
失ったからこそ、今度は、障害のある人やご高齢の人、
いろんな人が、安心して元気に暮らせる
バリアフリーな街をつくります」

ミライロはそれから数年経ち、自治体と一緒に、
街づくりのお手伝いをすることになった。
建築の専門技術を持っていない私は、
相変わらず見守るだけだった。

そして、私は今年、作家になった。

今の私には、見ることと、書くことができる。
どんな体験が待っているだろうか。

愉快な仲間と一緒に、ようやく、
行ったことはないけれど、ずっと行きたかったあの街に。

今から飛び上がるくらい、嬉しくて、楽しみだ。

(岸田奈美)

ほかのふたりの
2020年3月11日。

もどる