横尾忠則 アホになる修行の極意。 横尾忠則×糸井重里 対談
横尾忠則さんの新しい著書は
『アホになる修行』というタイトルの言葉集です。
アホになるとは、いったいどういう修行でしょうか。
ここ数年、横尾忠則さん主催の「合宿」で
夏の数日間をごいっしょしている糸井重里が、
改めてお話をうかがいました。
じつは横尾さんによれば、その合宿のテーマは、
「なにもしないことをする」というもので、
それはすなわち、アホになる修行の一環と考えられます。
82歳の横尾さんが最近元気になったという話題から、
人生のあみだくじ理論に至るまで、
一生をかけた修行の極意、うかがいます。


005 絵は描こうとするものではない。絵は描かされなければならない。
横尾
夢がないから、その分、
10代の終わりは人の言うなりでした。
そのほうがラクだからね。
大学を受けるために東京に行ったのに、
受験前夜にいきなり先生が
「帰りなさい」と言い出して、兵庫に帰った。
そのときじつは内心「やった」と思っていました。
なぜなら、絵描きさんになることを、
そんなに願望してなかったから。
自分がなりたいのは、
あくまで郵便屋さんなんだから、
これから1年浪人して
京都の郵政研修センターに行けばいいんだ、
なんて思っていました。
糸井
でも、受験用に絵を描く練習はしたんでしょう?
横尾
あんまりしなかった。
受験のために吉祥寺の先生のアパートで、
石膏デッサンを
10日間くらいやっただけ。
この間一歩も外出しなかった。
糸井
10日間、かんづめで。
横尾
ぼくはそれまで模写ばっかりやってたから、
形をうつすのはうまかったんですよ。
だけど絵の立体感や存在感を出す勉強は
一切してなかったわけ。
先生は、
「形をつかむのはうまい。
でも、彫刻の存在感は横尾くんには出せない」
なんて言う。
だから、言われたとおりやってみた。
1週間くらい石膏デッサンしていると、
どんどんどんどん、絵が真っ黒けになっていくの。
糸井
どういうことでしょう? 
横尾
1週間も同じ絵をいじくっているわけだから、
コンテを塗りたくっていたら画面が真っ黒になって、
知らぬまに先生が言っている存在感が出てきた。
先生の思っていることなんてぼくにはわからないし、
考えていなかったんだけど。
糸井
重みが出てきちゃったんですね。
横尾
真っ黒で、コンテが塗り重なって
重みが出てきた。
先生はときどき帰ってきて、
ぼくの途中の作品を見て、
「ここをもう少しこうだ」なんていって、
また出かけていく。
また帰ってきて、意見を言う。
けれどもだんだんだんだんものを言わなくなった。
ぼくの作品を後ろからじーっと見るだけ。
糸井
(笑)
横尾
なんで何も言わなくなったのか、わかんない。
でもぼくがいまになって思うのは、先生は
存在感が出てきたと思ったんじゃないかな。
このままデッサンができるようになれば、
「下手すると、この子は大学に受かっちゃう」
と思って、やばいと気づいたんだと思う。
「もし受かったら、
この子の面倒を見なきゃいけない」
糸井
試験の前日になって。
横尾
前日の夜だよ。
先生は、ぼくのために
受験をやめさせたんじゃなくて、
自分のためにやめさせたんだと思うよ。
ぼくはぼくで、
「やめて帰りなさい」と先生が言うのを、
無意識に望んでたのかもわかんない。
糸井
デッサンがどんどん黒くなっていったというのは、
つまり、横尾さんは
「激しく模写を重ねていた」という
ことなんでしょうね。
横尾
そういうことです。
先生は
「石膏の背後にある形まで連想しなきゃいけない」
と言っていた。
そんなことぼくにはわかんないよ。
けれどもやってるうちに、
ぼくの模写がそれに似てきたんでしょう。
糸井
模写を重ねると似てくるんですね。
横尾
10日間あれば、ぼくは、
存在感は無理としても、
20~30枚のデッサンが描けます。
そういう技術は持っていたけれど、
1枚の絵を10日間かけて描けば、
そら真っ黒けになって、存在感は出ますよね。
糸井
うーん‥‥それは、
その後の横尾さんを象徴しているような話ですね。
つまり、他の人たちが絵に求めているものと、
自分がやっていることが、
もしかしたら違うかもしれないという状況がある。
そこを何で埋めるのか、
ほんとうだったら探すことになります。
けれども、模写を重ねるようなデッサンをすることで
「え? これでいいのかな?」
ということが起こっていく。
横尾さんが長いことかけてやってきた「模写」を
濃くしていく手法で乗り切れるのです。
それはたぶん、いろんなアーティストにも
言えると思います。
「ほかの誰かが考えている方法」じゃない、
もともと自分が持っていたものから近づく方法です。
横尾
そうなんだろうね。
糸井
いま描いていらっしゃる大谷翔平選手の絵も、
さっきおっしゃった家の廊下のこともそうです。
「曲がるとき、肉体のほうに自分を置けばいい」
という話です。
頭が願望を持っているのではなく、
「体がこうなったから」それについていく、
という順番です。
横尾
ぜんぶがそうですよ。
つまり「なっちゃった」ということなんです。
糸井
なっちゃったことから、
自分が何を見つけようが、
他人が何を見つけようが、
それは知ったことじゃないんですよね。
横尾
うん。
だってそれは、
最初から目標だったわけではないから、
知ったこっちゃない。
糸井
そう考えると、もしかしたら例えば
ピカソの「ゲルニカ」に人が群がるのにも、
同じことが言えそうな気がしますね。
横尾
ピカソの絵にも、
構想はなかったと思いますよ。
構想があれば、あんなきわどい絵にならない。
糸井
ぼくもそんな気がしてます。
(明日につづきます)
2018-07-09-MON
横尾忠則さんの新刊

『アホになる修行 横尾忠則言葉集』

(イースト・プレス 刊)
これまでの横尾忠則さんの
エッセイ、対談、インタビュー、ツイッターなどから
選ばれた言葉集が発売されました。
さまざまなメディアで発信されてきた、
横尾さんの名言がまとまった一冊です。
生活のとらえ方や創作にかかわる考えなど、
鋭い言葉が光ります。
見開き展開でスイスイ読めますので、
なんどもくりかえし味わい、
心の刺激と栄養にできます。
本を締めくくる横尾さんのあとがきには、
こんな一文が出てきます。
「アホになるというのは、
自分の気分で生きるという自信を持っている
ということ」
このたびの糸井重里との対談でも、
「大義名分より気分が大切である」
という内容がくり返し出てきます。
それはいろんな人びとの暮らしに勇気を与える
本質をついた言葉であるといえるでしょう。
いろんなものを捨ててアホになる修行は、
横尾忠則さんに近づく第一歩なのかもしれません。