横尾忠則さんの新しい著書は
『アホになる修行』というタイトルの言葉集です。
アホになるとは、いったいどういう修行でしょうか。
ここ数年、横尾忠則さん主催の「合宿」で
夏の数日間をごいっしょしている糸井重里が、
改めてお話をうかがいました。
じつは横尾さんによれば、その合宿のテーマは、
「なにもしないことをする」というもので、
それはすなわち、アホになる修行の一環と考えられます。
82歳の横尾さんが最近元気になったという話題から、
人生のあみだくじ理論に至るまで、
一生をかけた修行の極意、うかがいます。
- 糸井
- 横尾さんは、著書もたくさんあるし、
こうした対談やインタビュー、Twitterでも
たくさんの言葉を出しています。
絵を描く行為に、言葉は邪魔になると
おっしゃっていたと思うのですが、
絵を描いてる最中は、言葉は出てこないものですか?
- 横尾
- 考えというのは、言葉です。
言葉がないと、考えもないんですよ。
- 糸井
- そうですね、形にならないですから。
- 横尾
- 言葉がないと、
「考えという形」にならずに、
それはただ「感じ」だけになる。
だけどぼくはできるだけ、
猫とか犬と同じような、
「感じ」や「感性」の状態に
なろうとしているのかもわからない。
- 糸井
- 感じているけれども
言葉にはしないことが、
絵にあらわれているんですね。
- 横尾
- そう。
- 糸井
- あの絵でいえば、
「柱」は言葉であり考えだけど、
その前に「あそこに何かが欲しい」ということを
ただ「感じ」ている横尾さんがいる、
ということですね。
- 横尾
- そうです。
- 糸井
- そこで茶色を選ぶことも、
「感じ」でやってるんですか?
- 横尾
- あそこに色をつけたいんだけれども、
何色がいいかということは、
吟味してないんですよ。
- 糸井
- うんうん、なるほど。
- 横尾
- 顔を茶色系で描いてたから、
目の前のパレットに絞っていた絵の具は
茶色が多かった。
青色がいいのかもわかんないけれども、
青を絞るのがめんどくさいから、
茶色が残ってるなら、茶色でやっちゃおう。
こういうふうなことはしょっちゅうあって、
それが考えなのかなんなのか、
よくわからないんですよ。
- 糸井
- 考えてみれば、
人間のやっていることはほとんどが受け身です。
つまり横尾さんは、
自分の知っているすべての色の中から
「これ」を選んだわけじゃないということですよ。
結婚するにしても、ぜんぶの女性と会ったうえで
「この人」に決めたわけじゃない。
狭い条件のなかで綱渡りのようにして、
みんなが現在まで来ているわけです。
- 横尾
- そうだね。
- 糸井
- それを、あらゆる可能性を考えたかのようにして、
ロジックで組み立てるのは、
なんだかちがうような気がするんです。
それに対し、横尾さんの
「そこに茶色があったから」という感覚は
ぼくにはとても合っているように思えます。
- 横尾
- 受け身は、つまり、受動的だということです。
能動的にやることなら、
そこには欲が働きます。
- 糸井
- そうですよね。
- 横尾
- それを自我というんだけどさ、
欲が働くことによって、
自分が結局はだめになることもあるんじゃないかな。
「自力」と「他力」ってものあるでしょう。
自力一本でもだめだし、他力だけでもだめ。
自分の意思はもちろんあるんだけれども、
その意思だけでは、表現に限界がある。
だから「他の力」を待つんですよ。
- 糸井
- うん、そうですね。
- 横尾
- それは直感で来る場合もあるし、
自分でフワッと「あ、これだ」と気づくこともある。
選択するのは自力だけれども、
最初に発見するときは他力です。
つまりは、他力も自力も同時に取っている
わけですよね。
それをね、ぼくはちょっと大げさに考えたんですよ。
自分の人生をぜんぶ受け身でできないか、
ということについて。
- 糸井
- ええ、どういうことでしょうか。
- 横尾
- 人間は、生まれますよね。
- 糸井
- 生まれます。
- 横尾
- なんで生まれたかはわからない。
こういう人間に生まれた、その理由もわからない。
でもじつは、そういうことをぜんぶわかって、
未来の人生を選択して
生まれてきたんじゃないかと考えてみたわけ。
- 糸井
- へぇえ。
- 横尾
- 生まれる以前に、すでに、
自分の生涯には計画がある。
そういうものがないはずがない、絶対にある。
- 糸井
- ぜんぶがつながりだ、
というふうに考えるわけですね。
- 横尾
- そう。
この親とこの親のもとで生まれたら、
どんな人生が歩めるか。
もうすでに自分はそのテストを受けているとする。
例えばこうです。
- 糸井
- はい。
- 横尾
- この人生に生まれると
すばらしい日々が生きられるかもわかんないけど、
最期には悲惨な思いで死ななきゃいけない。
一方、こちらはえらい苦労するけど、
最期はにっこりして生涯を終える。
「お前はどっちを取るか」と問われて
自分で「こっちだ」と決める。
そのレールがあるとします。
そこを設定したら、もう自分の意思で
あれこれいろいろしなくても、
流れに乗ったほうが
ラクに生きられるんじゃないかと思うんですよ。
- 糸井
- 流し台の水がどうあっても最短ルートを通って
渦巻きで流れていくのと同じですね。
つまり必然性というものは、
どんなに抵抗しようがしまいが、
抵抗したことも含めて最短である、ということ。
- 横尾
- うん。
ぼくの人生に起こることはすべてが偶然なんです。
けれども、その偶然の背後に、
- 糸井
- 必然がある、と。
- 横尾
- まぁ、こうなるとどんどん仏教的な考えに
なっていくんだけれども、
必然の流れに従えばいいし、
間違いはないんじゃないかな。
なるようになるように生まれているんだったら、
最後に犯罪者になるかもわかんない。
だけども、ならないように我慢したって、
なるんだったらなっちゃう。
- 糸井
- なるんだったらなる。
ならないんだったらならない。
- 横尾
- そう。その考えは70歳くらいのとき、
自分の中に定着しはじめました。
子どもの頃の出来事までずっと、
さかのぼって書き取りながら具体的に起こしたら、
不思議なことがたくさんありました。
あの人とあのときにああいうところで会って、
こうなって、ああなっている。
そう考えると、そのなかのひとつでも
どこかずれてれば、いまの自分はいないわけ。
- 糸井
- そうですね。ほんのちょっとでもね。
- 横尾
- ほんのちょっとでも。
じゃああれもこれもぜんぶ、
いまを存在させるための必然じゃないか、と考えた。
- 糸井
- あみだくじを逆さにして、
当たりからさかのぼっていくように。
- 横尾
- あぁ、ほんとうだね。
- 糸井
- ここまできた道を振り返ると、
「あそこで曲がるに決まってるから曲がった」
んだけど、それは当たりの場所から
さかのぼっているからわかるだけです。
必ず「いまの俺」のところまで
来ることがわかっているから。
これから起こることの予言はできないけれども、
さかのぼることはいくらでもできるわけで。
- 横尾
- できますよね。
- 糸井
- これは、あみだくじ理論ですね。
- 横尾
- そう考えると、
偶然って、なくなっちゃうんですよ。
生まれる前から
プログラミングされてたことで。
- 糸井
- うん。
いいことも、別に偉ぶる必要もないし。
- 横尾
- そうするとね、人生っていうのは
おもしろいですよ。
- 糸井
- 自分の過去の、
右に曲がったり左に曲がったりする出来事を
書いていったらおもしろいかもしれない。
- 横尾
- 糸井さん、やってごらん。
あのとき、あの場所で、
あの人に会ってなきゃ、どうなったか。
- 糸井
- それはもう、ぼくだって
そんなことだらけですよ。
- 横尾
- で、その人は
仲人みたいなものだから、
こちらに大きな影響を与えたことは無関心なわけ。
- 糸井
- 本人はね。
- 横尾
- 一方的に出会っている場合もありますからね。
- 糸井
- 会ったつもりがない人にも影響与えてますよね。
例えば横尾さんの本を買った人が
妙に惹きつけられて、そこからの運命が変わる、
ということもあります。
- 横尾
- それはよくわからないけど、
まぁ、ありえるかもわかんないね。
- 糸井
- 「横尾さんの絵を見て、ぼくはこうなったんです」
みたいなことを、よく聞くでしょう?
影響なくはないですよね。
- 横尾
- いい影響だけとは限らないね。
それもすでに決まったこととするならば、結局は
自分の気分に従っていれば間違いない、
と思います。
- 糸井
- 自分の気分、つまり直感ですよね。
ぼくらは川を流れる小石だったとしても、小石なりに
「あぁ、こういうふうに動けてるんだな」
ということは感じられるわけです。
アホになる修行としては、
気分として「このほうがいいな」という感覚を
信用していけばいいんでしょうね。
ああ、横尾さん、時間が来てしまいました。
また、次の「合宿」でお話しましょう。
- 横尾
- うん、そうだね。
また夏に、だね。
(おわります。ありがとうございました)
2018-07-13-FRI
これまでの横尾忠則さんの
エッセイ、対談、インタビュー、ツイッターなどから
選ばれた言葉集が発売されました。
さまざまなメディアで発信されてきた、
横尾さんの名言がまとまった一冊です。
生活のとらえ方や創作にかかわる考えなど、
鋭い言葉が光ります。
見開き展開でスイスイ読めますので、
なんどもくりかえし味わい、
心の刺激と栄養にできます。
本を締めくくる横尾さんのあとがきには、
こんな一文が出てきます。
「アホになるというのは、
自分の気分で生きるという自信を持っている
ということ」
このたびの糸井重里との対談でも、
「大義名分より気分が大切である」
という内容がくり返し出てきます。
それはいろんな人びとの暮らしに勇気を与える
本質をついた言葉であるといえるでしょう。
いろんなものを捨ててアホになる修行は、
横尾忠則さんに近づく第一歩なのかもしれません。
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN