肉体言語で考えてごらんよ。安宅和人×糸井重里
安宅和人さんをお迎えして、
糸井重里と10年ぶりに対談をしました。

ヤフーやLINEといった会社をグループ化した
Zホールディングスで働き、
新人を積極的にチームに入れている安宅さんは、
同時に慶應義塾大学で学生に指導することも。
デジタルネイティブないまの若者を
よーく見てきた安宅さんと、
これからの時代の若い人の生き方について
糸井重里とたっぷり語り合いました。

ITの世界でデータを扱う安宅さんですが、
ご本人の育ち方は正反対な、自称「野生児」。
全身を使って体験してきたことが、
いまでも役に立っているそうですよ。
※この対談を動画で編集したバージョンは

 後日「ほぼ日の學校」でも公開します。
(4)情報処理と表現と。
糸井
安宅さんが育ってきた環境を聞いていると、
いまお仕事をなさっている
ITの業界とはかけ離れていますよね。
安宅
ちょっと違いますよねえ。
糸井
これは批判として言いたいんじゃなんですが、
ドラマを倍速で視聴する人が
増えているっていう話を聞きますよね。
そこで見えているものを
何として取り入れているんだろうって思って。
写真
安宅
ああ、わかります。
ぼくも最近感じていることで、
特にエンジニア出身の人って、
しゃべる量がめちゃくちゃ多くて速いんです。
ぼくだったら同じ情報を伝えようとしても
10分の1ぐらいしか届けられません。
全部をコードで書く癖があるから、
そういう速さと量になるんでしょうかね。
情報のシークエンス(順序)で
物事を考えているタイプの人にとっては、
倍速で見ても価値があるんですよね。
ぼくはむしろ間合いを見ているだけで、
ことばにならない心理的変容を味わっているのに、
彼らにとっては、物事のつなぎを見て
飛ばしながら筋を読んでいるわけです。
それって、ぼくの立場からしたら
はっきり言ってしまうと情報じゃないんです。
でも彼らにとっては、倍速で見たドラマも
情報になっちゃっているんですよね。
糸井
全部を細かく割った小銭に
換算できているんです。
安宅
そう、我々にとって大事な部分は
その小銭と小銭の間なんですよね。
糸井
もっと言えば、ちっちゃい子どもは
お金の価値がわからないときでも、
お金をもらったら喜ぶじゃないですか。
価値がわからなければ
お金は何の意味もないわけですよね。
でも、それを情報として考えれば、
何か価値があるようなピカピカしたものに見えて
「もらった」「嬉しい」となるみたいな。
そこがおそらく自然だと思うんです。
その感覚は安宅さんが富山で培かったものなのかな。
安宅
そうだと推定しますね。
毎日、薪(まき)を割って育った私ですから。
中学3年まで教育方針で薪風呂だったんです。
ぼく、真冬で雪が積もっている中でも
薪小屋まで拾いに行って
薪を割ってくべるという謎の仕事がありました。
中3になった頃に
「そろそろガスでいいだろう」って、
ガス風呂に変わったんです。
糸井
それが教育的指導だったんだ。
うちの父親の場合は教育というより
経済的指導かもしれませんが、
お風呂に薪をくべて火を見ているのを
大好きだって言ってました。
ほろよい機嫌でずっとそこにいて、
なんでそんなことしてるんだろうと思ったけど、
自分が小金持ちになったりすると、
ストーブの面倒見るのが好きになってね。
安宅
いや、最高ですねえ。
やっぱり火にはヒーリングの
謎のパワーがありますから。
糸井
火は大昔から嬉しかったんでしょうね。
自然にあるものを人間が感じたり、解釈したりして、
情報に分解したものが文章になります。
でも、文章として表現されたものも、
その原因のところには燃えている火がある。
すでに文章になってしまったものを、
情報の集積だからといって
イコールだと結びつけて学ぼうとすると、
元になっている火が見えなくなっちゃう。
吉本隆明さんが晩年に
詩について語った文章があるんですが、
「表現から表現をする時代になっている」って。
安宅
ああ、なるほど。
体験から表現を生み出すではなく。
写真
糸井
実際にあるもの、存在するもの、
自然みたいなものをどう表現しようと
考えるのではなくて、
すでに表現があるところから
表現ができてくるようになっているんです。



その話を聞いて思ったのは、
それを、私論としてでなくて発表したのは、
アンディ・ウォーホルだと思うんですよ。
つまり、リヒテンシュタインだとか
ポップアートの人たちは、漫画という表現を
今度は絵の具で描いて表現したわけですから。
「漫画って何を表現したの?」というところの
向こう側までは問わなかったわけですよね。
それがもう自然になっちゃったから。
同じことがいまでは芸術家だけじゃなくて、
普通の人の間にも行われるようになりました。
ポップアート的な世界をデジタル以後の人は
行きはじめちゃっているから、
これはすごいことだなと思っているんです。
安宅
それは‥‥、
いいことなんですかねえ。
糸井
きっと、いいこともあるんだとは思うんです。
でも、情報として処理をしてばかりだと、
自然の問いかけに耐えられないですよね。
たとえば戦争が起こった時に、
情報としては全部を処理できますよね。
こういうことがあって
何人の被害者が出た、と。
でも、たとえばの話、
ウクライナのお父さんが
子どもとお母さんを車で国境線まで送っていき、
家族の安全を見届けてから、
いっしょに国境の向こうに行くんじゃなくて、
帰り道へ運転をして軍隊に戻るわけですよね。
安宅
そうですね。
糸井
表現としては、それを文章に書けばいいんです。
でも、そこに起こっていることが
もしも自分の身にあったときに、
どう考えるんだろうとか、
どう感じるんだろうっていう想像力は、
デジタルの情報を
いくら処理しても届きませんよね。
安宅
味わったことのないものは
やっぱりわからないわけですよね。
あの、糸井さんの前で言うのが
恥ずかしいんですけど、
中学校や高校ぐらいのときに
英語をいっぱい学ぶじゃないですか。
ただ、ぼくには
多くの概念を理解できなかったわけです。
写真
糸井
ああ、そうでしたか。
安宅
私の身の周りの富山の風景の中には、
存在しない概念が多すぎたんですね。
ほんっとにわからないことばが多かったから、
何を言っているのかわからなくて。
糸井
文化が違いますからね。
安宅
違いすぎましたよ。
そもそも、概念そのものがわかりにくくて、
言語を学んでいるんじゃないっていう
感覚が強かったんです。
自分で重さを感じられないことばを使うのは、
生涯イヤだなと思っていたんですよね。
だから、なるべく生でわかるものを
増やそうと思って生きてきたつもりです。
糸井
安宅さんが違うところで育って、
さらに違うお父さんに育てられていたら、
まったく違ったということですよね。
安宅
ああ、違う人間になっていたでしょうね。
糸井
この辺りの話をするのが難しいんですよ。
「親父ってそういうこと言うよね」って話に
置き換えられて処理されちゃうから、
話がしづらくなっちゃったんですよね。
安宅
ワケのわからないことも含めて、
親父は親父であるべきだと思いますけどね。
糸井
だけど、その大元に
表現から表現をするんじゃなくて、
表現の元になる驚きだとか、
恐怖だとかの感覚がほしいんです。
雷がバーンと鳴ったときに犬が怖がって、
同じように人間も怖がりますよね。
雷は怖いっていう感覚と、
雷についての知識が重なってはじめて、
雷は怖いんだという表現になる。
安宅
そうなんですよ、そうなんですよ。
あっ、ぼくは中2のときに
雷の空中放電で
吹っ飛んだことがあるんですけどね。
糸井
えっ、なんですかそれは(笑)。
(つづきます)
2023-05-22-MON