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インドにはサイババという
「神様の化身」が いることを、
知ってる人は知ってるだろうが、
知らない人は全然知らないだろう。
ま、インドという国の持つ独特の神秘性からすれば
神様がいようと仏様がいようと不思議じゃないのかもしれないが。
この神様は指輪やネックレス、ビヴーティと呼ばれる聖灰を空中からとり出す。
「物質化」の奇蹟を 日常茶飯事とするところが、
ありがたい教えをのたまうだけの宗教家とは
ちょいと実力がちがうぜ、なのである。
それがホントのことなら、その神様の超能力をぜひこの目で見たい!
赤城山の「徳川埋蔵金発掘 プロジェクト」の敗北宣言から(わずか)3ヵ月の沈黙を破り、
好奇心の化身・糸井重里氏がインドに向かったのであった。
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_____プロローグ_______
精神の埋蔵金を掘りに
行くとか言っちゃった。
はじめに好奇心ありき。
好奇心とは、昔、自分で作った自分のコピーでいえば
「不思議、大好き。」の心なのである。
不思議が、珍奇が、とても好きのコトよなのである。
なにゆえに不思議が好きなのであるかと問われれば、
答える用意もあるにはある。
世の中というものは、不思議なんかなくったって、
「だいたい間に合ってる」ものなのである。
これは、現代の日本が不況とはいえ豊かだから、ではない。
貧しい地では貧しいなりに、
戦乱の国では戦乱の国なりに、毎日、だいたい
「あり得うべきことがあり、
あり得べからざることはない」ものなのだ。
しかし、そのことについて、
気持ちのどこかにカユミのようなものを覚えたりする。
「だいたい間に合ってる」ことを、
そのまんま認めてやりすごしてしまうことが、
ごく自然にできるなら、そりゃもう悟りってことじゃないの?と、
私は思うのだ。
青年期の私に多大なる影響をあたえた
ビートルズの臨終のアルバムが
「レット・ イット・ビー」(在るがまんまの、そのまんま)
という題名だったことも、
「ま、そうだよな ぁ、そういうふうに考えられたらなぁ」と
憧憬に似た気分をひきおこしてくれたりもするが、
同時に「そういうこと言ってるから終わったんだよ」
と怒りたくなるのも事実だ。
サイババの居住地であり、信者の修練場でもある
ブッタパルディはインドの南部、バンガロールから
クルマで4〜5時間のところにある小さな村だ。
丘の上にある宮殿のような建物はVIP用の宿舎。
サイババの住まいは木々に隠れた神殿にある。 |
炎天下の大通りでいかにも何も
考えてません風に寝ている犬に、
時々はうらやましい気持ちを抱いたりもするけど、
その犬になりたいかと言われりゃ冗談じゃないと言う。
この 感じが「不思議、大好き」の原形なのである。
スカートやらパンストやら、小さくまるめたら
消えてしまうのではないかと思えるパンティやらに
秘匿された物件に、私たちがあんなに注目しているのも、
「不思議、大好き。」の 心がもとになっている。
好奇心ぬきの性欲などというものは、
穴のないドーナツやアルコール度数ゼロの
ウイスキーみたいなものである
(もっとも、そういうものがどこかに存在するとしたら、
そいつはずいぶん珍奇だから、
あらためて好奇心の対象にはなるけれどね)。
演説をさせてもらえば、もともと生き物ってやつは、
「だいたい間に合ってる」状態で海のなかに
レット・イット・ビーしていたわけだ。
ところが、どこをどう間違ったかその状態に
カユミを覚えたやつがいて、
生存条件最悪の陸にあがってきたわけだ。
エライと思わないか諸君!
生きるチャンスを天に預けて上陸してきたギャンブラーは、
おそらく大多数が失敗して死んだ。
それを知ってか知らずか、
また次々に「だいたい間に合ってる」
海にサヨナラを言って
上陸を試みるやつが出てくる。
このくりかえしのなかで、
生物は陸にも生存圏を拡大して、
はびこってきたというわけだ。
私たち陸地にいて酸素を
吸ったり吐いたりしている人間たちの
御先祖様というのは、
たいしたギャンブラーだったわけだ。
命知らずとも言える彼らのおかげで、
私たちが 毎日毎日なかなか立派な
ドライな生活をおくれているということだ。
ついでだけど、
私たちの御先祖様が「だいたい間に合ってる」海に
別離のあいさつをしている時、
「なーに考えてんだか、このバカは」と、
そのまま海んなかでゆらゆらしてたやつらの子孫は、
いま(1994年現在)イカやタコやイワシをやって いる。
だからつまり、好奇心ってのは、
そうナメ たもんじゃないということで、
奇なるものへと向かう心をなくしてはイカンと
言いたいのでありました。
ブッタパルディの町を歩く糸井氏。
この町はサイババ様でもっている、
城下町のようなものだった。 |
秘匿されたるもの
(海にいる生きものにとっての陸。
男にとっての女のパンツのなか。
日常生活の間に合ってる感に対して
カユミを覚えている視聴者にとっての超常現象などなど)
のことを、ひっくるめて、
私はオカルトと呼んでいる。
この論でいくと、 世間のオカルト好きは、
必ずスケベであるということにもなる。
逆に、スケベなやつは
必ずオカルト好きであるとも言えるので、
ヌードグラビアを穴のあくほど眺めたり観察したりしようと
企画して「月刊プレイボーイ」を購入した読者には、
この私の原稿はたまらなく素敵なオマケとなるはずである。
だから、ま、そこに座って、
ゆっくり私の話を聞きなさいお若いの。
インドに行こうと言いだしたのは、私である。
どこで言ったかも記憶している。
「徳川埋蔵金発掘プロジェクト」が、
そのプレハブ小屋の本部の看板を外して、
東京へと帰ろうとしているロケバスのなかである。
埋蔵金に負けた私たちではあったが、
その敗北を噛みしめる時期はとっくに過ぎていた。
五年間も大量の土の山と格闘しながら、
私たちが闘っていた真の敵だれなのかを考え続けていた。
直接のゲーム上の敵は、小栗上野之介やら林鶴梁やらの
幕末の知恵者である。
彼らとの根気比べ知恵比べが、
私たちのゲームの肝ではあった。
しかし、もうこれ以上進めないと
ゲームの敗北を宣言した時、
私は百年も前に生きていた彼らのことを、
格上の実力を持つ同好の士のように感じていた。
むろん、私たちは好奇心のおもむくままに
パワーショベルで地面を力まかせに
掘り続ける遊び人ではある。
江戸幕府を、ひいては日本の将来を動かすために
国家予算規模の計画 を考えていた彼らは、
一人一人の人生以上のものを賭して
本気の試合を組み立てていたはずだ。
しかし、遊びの側には本気が、本気の側には遊びが、
微妙な配分で互いに混じりあっていたように思えるのだ。
詳しく語ってもキリがないからやめるけれど、
地下五十メートルに
唐突に存在していた岩をくりぬいた大穴には、
生真面目な官僚の仕事として片づけられない
「愉快犯」的な匂いが確かにあった。
私たちが胸を借りていた幕末の知恵者たちもまた、
海から陸に追いたてられるようにして移り住もうとする、
「不思議、大好き。」な御先祖様の血をひいていたと
思えてならないのだ。
彼らは、好敵手であって、敵ではない。
私たちは敗北者であって負け犬ではない。
そんなふうな、他人からみれば調子のいい整理をして、
私はロケバスに乗っていた。
赤城山五年間の、何よりの収穫は、
チームの成長であった。
テレビ番組の制作プロダクションの連中、
地元の建設会社の親方や若い衆、
そしてさらに「大ボラ番組」とも
「夢物語」とも言われる番組を、
見続けてくれることで、
このゲームに参加していた熱心な
視聴者という名のチームメイト。
赤城山の埋蔵金には敗北宣言をしたものの、
これだけのチームを解散させるのは惜しかった。
関越自動車道を、もう何度も往復することはないけれど、
この愛すべき馬鹿者どもの動きを止めるのは、
人類の損失である。
人類は大げさでも、日本 の、いや、オレがサミシイ。
半年後だの一年後だのに同窓会のように集まって、
山の思い出を語り合って何になるんだ。
どうせその頃には、それぞれが「だいたい間に合ってる」
世間にむけての放屁一発程度の仕事を
やらされているにちがいない。
好奇心のエンジンに本気のガソリンをぶちこんで
高速で回転するような仕事が、
そうそうありようはずもない。
サミシイじゃねぇか。
そんな気持ちを、車内で寝たふりをしている
チームメイトたちに打ちあけたくて、
私はずっと目を閉じながら考えていた。
「インドにさぁ、どうも正体はよくわからないんだけど、
ふんだんに指輪とかを出す超能力者がいるらしいんだよな」
ブッタパルディの丘に生える
「奇蹟の樹」。若き日の
サイババはこの樹に
人々が望むもの
(リンゴやら桃やら)
をならしたのだという。 |
口数の少ないディレクターが、「へーえ」とも言わずに、
目をしばたたかせながら振り向いてきた。
「何百万人も信者がいるらしいんだよ。
指輪を出しちゃあ、ひょいとくれるっていうんだよ。
毎日くれちゃう。
けっこう、これこそ本物らしいってことで、
政界のエライサンとか、西洋のお好きな方々なんかが、
ぞろぞろと訪 ねてるらしいよ」
喋りながら、私はひとりのテレビ視聴者になっていた。
ユリ・ゲラーのように、止まった時計を動かしたり、
その後のほとんどの超能力者たちのように
スプーンを曲げたりするのは、もう飽きている。
スプーンは曲がるけど、
五百円玉は曲がらない超能力なんてものじゃ、
ただの能力ではないか。
超がつく以上は、硬いものも柔らかいものもおなじように
ぐにゃぐにゃにしてくれなきゃ困る。
それに、なんだ、最近の霊能力者とかってやつらは。
断定的に言えば、何だっていいんだろう。
ちょっと前までなら、
おはらいバアさんくらいのあつかいだったものが、
先生みたいになっちゃってさ。
それに比べたら、空中から指輪とり出しちゃったり、
ネックレスとり出しちゃったりするのはスゴイよ。
そんな場面をテレビでみたいもん、オレが。
すでにけっこうおおぜいの人々が、
トリックではあり得ないと証言してるらしいし、
何百万人が神様あつかいをしているってからには、
簡単に考えてもまだバレてないってことだろう。
それ、じろじろ見たいよ。
超能力オタクに近いくらい「不思議、大好き。」の私だが、
その世界に近づけば近づくほど、
否定的になっていくことが多かった。
しかし、どこかにホントの超能力があったらいいぞ、
という気持ちはなくなっていはいなかった。
「だから、もし、さ、人間が空中のなにもないところから
指輪をとり出すなんてことがあるとしたら、
あらゆる可能性が変化しちゃうわけだろ。
ないに決まってるものが、あるんだって話になったら、
こりゃ、何百兆円の埋蔵金以上だぜ」
ディレクターは観念より具体性を考える。
「それ、いまも生きてるんですか?」
そうだよ、死んでる人じゃ番組にならない。
「毎日出してるのよ、指輪、ポンポン」
私は、友人の自慢でもするように、
知っていることを話しはじめた。
サイババ、という妙な名前は、
前からうっすらと知っていたように思う。
ハレ・クリシュナだとか、マハリシだとかいう名とともに、
なんだかインドだかチベットだかのあたりにいる
導師みたいなもの、
として聞いたことがあるという程度だ。
このサイババさんが、「物質化」とかいうらしいが、
指輪を空中からとり出すと知ったのは、
一冊の本によってだった。
ニューエイジ 関係の書籍に強い
「青山ブックセンター六本木店」の、
私の大好きな「哲学・思想・宗教・ その他怪しいもの」の
集まっているコーナーにその一冊はあった。
サブタイトルが、
「科学と知識のさらなる内側」というのだから、
このあたりの本の好きな人間なら、
F・カプラあたりの流れの、
学者が精神世界に目を開かれました、
といった内容の本だろうなと見当をつける。
タイトルは、平凡で「理性のゆらぎ」。
青山圭秀さんという理学・医学博士という肩書きの
三十何歳かの人が著者だ。
そういう理性の人が、
ゆらいじゃった話だろうということは、
読まなくてもわかる。
読んでみて、もう少しわかったのは、
サイババという人が生きて
毎日奇蹟を起こしているということと、
著者が理性をゆらがせっぱなしにして
「ボクは冷静にしてるんだけど、
ホントにすごいんだからァ」
と大宣伝していることだった。
少し真面目に言いなおすと、
本の前半は、自分は科学者だが、
信じ難いようなこともあることをわかっている。
しかし、インチキも多いのも知っている。
インドに行って、なんたる幸せサイババに会えて、
スッゴイんだからもう……と、
ちっとも言いなおしてないか。
で、後半は、ホンットにスゴイぞ、と書いてあるわけ。
サイババはブッタパルディののほかに
バンガロール郊外にも別宅を持っている。
ウサギやシカなどの小動物も飼っていて
可愛がっている。 |
正直なところ、私は前のほうを読んでいる時には、
誰か好奇心が強くてなるべく冷静な友人に、
この本をすすめたくてたまらなくなっていた。
しかし、読み終えると、
そのまま雑誌や古新聞といっしょに
燃えるゴミに出した。
買ったのは私だから、そこいらは私の自由だ。
しかし、「話半分に割り引いても、
目の前で指輪を出されたら
びっくりするだろうな」という思いは、
いつまでも尾をひいていたのである。
近頃では、夢中になって読みあさっていた
ライアル・ワトソンを疑っている私である。
コリン・ウイルソンについても、
ちょっと問題あるよなぁこのオッサンは……と
平気で裏切っている私である。
昨日今日出てきた新参オカルト本に厳しいのは、
当然なのである。
でも、万にひとつでも、このサイババって
「神の化身」さんが、モノホンだったりした日には、
それを無視していた私はきっと後悔するだろう。
行ってガッカリするよりも、
行かずに気にしてるままのほうがカラダに悪い。
あれもこれも信じられないと、
悲しい思いの「不思議、大好き。」中年男は、
万が一の、 つまり数字になおせば
0.0001パーセントに賭けたくなったのである。
赤城山の負け戦の直後だったから、
何でもいいからもっと掘りたいという気持ちは、
たっぷりあった。
私の話を聞き終わったディレクターは
「本が出てるんですか」と言った。
もう少し、番組にするための
具体性を探るつもりなのだろうと、
私は思った。
インドに行って、
神の化身が空中から指輪をとり出すところを、
テレビで見る。
「あの手つきが怪しい」だの
「どこに隠してあるんだろう」だのと、
ガチャガチャ文句を言いながら、
「ホントかもしれないぞ、これは」
などと録画したビデオを巻き戻す。
日本中の好奇心の強い人たちに、
そんな楽しみをプレゼントしてやりたい。
自分が現場にいかなくても、
そんな不思議をテレビで見ることを、してみたい。
実に混じりっけのない、
100パーセント天然の好奇心であった。
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