_____サイババ登場_____
ババ様ったら、
ほんとに恋の駆け引きがお上手。
私たちが初めて参加するダルシャンは、夕方から始まる、
その日2度目のものだった。
話に聞いていたよりも参加者が少なく感じるのは、
大きな祭が前後にあるせいだという。
それでも、大きな小学校の朝礼くらいの人数が集まっている。
数にして1千人ほどの信者が、地面に
あぐらをかいて待ち続けているのを見ると、
彼らが待っている対象について、ますます興味がわいてくる。
あぐらをかいた人々が、そろそろ尻の位置をなおすころ、
信者たちにとっての「天上の音楽」が鳴り響く。
使い捨てライターの工場さえないというインドのことだから、
スピーカーもきっと輸入モノだと思うのだが、
ずいぶん歪んだ音である。
音楽が流れ出すにあたっては、
誰かがスイッチを入れてるんだろうねぇ、きっと。
とにかく、それと同時に
サイババが登場することになっているから、
人々は一斉に、ババ様のお住まいである「おとぎの家」
(これは私が勝手にそう呼んでるだけ)
のほうへと視線を飛ばす。
おお! なのである、やっぱり。
あの、写真で見なれたシノヤマなヘア。
さらにまた、写真で見なれたオレンジ色の衣装。
ライブで見るサイババは、思ったよりずっと濃い味である。
「あれが、神かもしれない人間か」、私はかなり緊張した。
偉い人とか立派な人というようなものではないのだ。
死んでも復活する人、何でもお見通しの人、
無から有を生ぜしめる人、人類の生死を握っている人、
つまりは神としか言えない人が、
歩いてこっちに向かってくる。
ダルジャンにお姿をお見せになるババ様。 インド国内はもちろん各国から 信者が集まって来るのだが、 ヨーロッパやアメリカからの訪問者 がかなり多いのに気がついた。 ババ様の教えが宗教を問わず、 しかもキリスト教のテイストが
強いことも関係ありそう。 |
写真で知っているサイババより、少し顔の色が黒く、
少しと言えないほど髪の毛が薄い。
エネルギッシュではあるが、
想像していたよりも老人っぽい印象だ。
身長は150センチと説明されたが、
なかなかそうは見えない。
頭が異様にでかいところに、あのカーリーヘアだから、
そのぶんで20センチ近く背が高くなってしまうのだろう。
そして、やっぱり、顔が怖い。
ひどく不機嫌な深海魚といっても、
やはりその怖さは表現できない。
若き日のサイババの写真には、
笑顔らしい笑顔も見受けられるが、
近年の写真には笑った顔がないようだ。
口の両端が軽く 持ち上がっているものは あっても、
目は笑っていない。
威嚇するような視線が、信者たちの人垣に向けて、
突き刺すように発射されている。
これが、「お見通し」の視線に感じられたら、
もう逃げられない。
あの視線ひとつで、
サイババに会った人たちは自分の心のなかの
「不信仰」や「利己心」「欲望」「疑い」
といったものに対面してしまうことになるのだ。
怖いのは、本当は「サイババの顔が怖いだけ」
なのかもしれないのに、
私たちは「自分の悪いココロ」を
見られているから怖く感じるのだと、
錯覚してしまうのである。
私もそうだった。あの目でにらまれて、
「おまえは悪いやつだ」と怒鳴られたら、
震えあがってしまっただろう。
そんなに悪いやつだという自覚はないけれど、
少なくとも「神の化身」に対して疑いを持ったり、
神を冗談のタネにした覚えは確かにあったのだから。
しかし、私の目もサイババの移動に
張りつくように動いていた。
よく、見たい。あの、怖いものを、よく見ていなきゃ……。
考えてみれば、「神である人間」などというものは、
ただの人間から見たら「フリークス」として
認識されてしまうものなのだろう。
サイババの修練場の囲いの外には、
身体の歪みや欠落を職業上の
武器にしている物乞いが大勢いる。
その憐れまれ同情される人々と、
このカーリーヘアの「神人間」は、
平凡な人間たちから、
同じ好奇心で見つめられているのである。
神という化物をもっとよく見たい。
あ、神という化物が歩いている。
神という化物がしゃべったぞ。
この日の私の好奇心は、おそらくそんな視線を
サイババに送っていたに違いない。
きっと私たちは、
翼を背中につけて空中を漂う天使を見つけても、
羽根がどんなふうについていて、
どんな具合いにそいつをはばたかせ飛ぶのかを、
目を凝らして見ようとするに違いない。
地上に神はいないことになっていた。
しかし、ここにいるというのだ。
神であるという人間が、
足を互い違いに動かして歩いているとしたら、
私たちは、とても立派な人間を見るように見ることなんか
できはしない。
まったく目を閉じてしまって「見ない」か、
珍しい化物を見るように見るか、どちらかだ。
そんな私の目に映るサイババは、
やはりどんよりと黒く重く怖くて、気味が悪い。
もしかすると、サイババは、
最も「神の化身」としての資質を豊かに持った
風貌をしているのかもしれない。
小柄で、やたらに頭部が大きく、ぬめっとした肌合いと、
爬虫類のような威嚇的な表情。
フリークスとして、超人間として、
神として、平凡な私たち人間の前に登場するのに、
これ以上に最適な姿かたちはないのではなかろうか。
長身痩躯の端正な顔立ちの人間が、質素な服装で現れたら、
「神の化身」と感じるよりも「高度な人間」
と考えられてしまうのではないか。
感受性に逆転を迫るようなインパクトが、
やはり「神の化身」には必要なのだ。
「神の化身」は、時計の短針のような
じっとりゆっくりした歩みで進み、
信者たちが手を伸ばして渡す手紙を受け取り、また進む。
手紙を受け取るのがダルジャンにおける
信者との交流のひとつ。 ババ様は何語で書いてあっても理解する
(神様だから当たり前か?)。
|
サイババは受け取った手紙は、封を切らずに読むという。
それなら、わざわざ手紙を受け取らなくても、
書いた者の意志だけ読み取ればよいと減らず口を
たたきたくもなるのだが、
儀式として重要なのかもしれない。
手紙の受け取りがないと、
サイババがただ歩いているだけということになってしまい、
ちょっとカッコがつかないという気もする。
手紙を受け取ったり、顔を動かして
視線をあちこちに飛ばしたりしていて、
ふと、サイババが立ち止まる。
さっきまで、
衣装の腰のあたりをつかんだり、
手紙を受け取ったりしていた右手を、
下に向け、あわただしくといった感じの速さで
何度か空中を撫でるように回す。
開き気味で回転させた手のひらを、
ものをつかむようなかたちに閉じ、前に差し出す。
信者たちは、聖灰を「物質化」したということを察知し、
驚きの表情で、両手でとっさの容器をつくり
「私にください」とばかりに腕を突き出す。
そこに、サイババは、
ちょうどお焼香をする時のような手つきで、
聖灰を頒け与える。
神のなす、厳かな行為というには、
あまりにもあっけない出来事に思えた。
なんというか、「べらんめぇ」な感じというか、
粗雑な印象を与える振る舞いというか、
「当たり前のことを、いつものようにやっただけよ」
と言っているようなアッケラカンな秘儀ではあったのだ。
お供の学生が、聖灰を配ったサイババに、
お手拭き用のトイレットペーパーのようなものを差し出し、
これで「聖灰で汚れた手」を拭うという「後技」も、
妙に日常的でユーモラスに映った。
しかし、その時、その場では、
そんな観察記録を心に刻んでいるような余裕はない。
肉眼で神の奇蹟の業を見せられるのはたまらない。
怖さは、ますます増していった。
やがて、化物が、いや、化身が、私の前に近づいてきた。
「ああ、許せるものなら許してくだせぇまし。
神の化身様のことを冗談にしたり、
信じなかったりしたオラに、お許しを!
そして、オラの、自分でも気づいていなかったような
善行やら前世での業績を評価してですねぇ、
インタビュールームに招き入れて、
指輪を出すとこを見せてくだせぇまし!
あ、さらにできたら、そこにテレビカメラ同行の許可も
お願ぇしますだ! ドキドキ」
そんな身勝手なことを考える私の気持ちを、
もっと短くひと言で表現すれば
「ババ様に気に入られたい!」であった。
ババは、私の正面に来る前に、
もう、背筋も凍るような視線をぶつけてきた。怖い!
そして正面に来た。視線は、まだ私の目だ。
何も言わず、そのまま通り過ぎ、
「今日は呼ばれなかったな」と私たち一行が思った時、
サイババは振り向き、肩ごしに私に言った。
「ジジュ・カム」
私の耳にはそう聞こえた。「Did you come」か。
頭のホワイが聞き取れなかったとすれば、
「なぜ来たのだ?」。
ホェアがあったなら、
「どこから来たのだ?」ということになる。
蛙のような声に聞こえた。
神に恫喝されちまった。
そんなふうには考えたくなかったのだが、
サイババが私に向かって怒っていたとしか思えなかった。
私や、私たちのスタッフが
「神の敵」だということなのだろうか。
敵になるほどたいしたやつらじゃないんだけどなぁ。
指輪を「物質化」してもらって、神の化身と語り合って、
日本に帰って近所の人気者になるんだー♪
という、いかにも馬鹿らしい私の希望は、
叩き割られたガラスのコップのように、
こなごなに砕け散ってしまった。
もうダメだ。オレは、こんなに愛しているのに、
あいつはオレに怒っている。
惚れた女の憎しみをかってしまった青少年のように、
私は打ちのめされてしまった。
私の近くに座っていたスタッフも、
「何を言ったかはよくわからなかったけど、
怒ってるみたいでしたね」と語る。
「なぜ来た!?」と、怖い顔で言った人がいたら、
その人は、きっとあなたが嫌いです。
人間関係の法則では、そういうことが断言できる。
しかし、待てよ。私たちが特別入口から入場できて、
この条件のいい場所に座れたことも、
カメラの撮影が許可されたことも、
サイババ自身が認めなければ、なかったことではないか。
このアシュラムには管理の責任者はいるけれど、
サイババの指示で動いているという。
だとしたら、ババ様は、
私たちを自分の近くまで引きつけるだけ引きつけておいて、
突然カミナリを落とすような
パフォーマンスをしたのだろうか。
さまざまな特別待遇をしているということは、
「敵」として扱っているわけではないということではある。
私は混乱した。
サイババは怒っていたのではなく、
怒っているように見えるほど怖い顔をしていたのかね?
こっちの気持ちが汚れているから、神の化身に怒られたと、
勝手に感じてしまったのかな。
惚れた女の心を確かめることもできずに悶々とする男のように、
私は苦しんだ。
それに、こっちも、自信を持って「愛してる」
なんて言えない弱みもあるわけだから、
見破られても仕方がないし。
夜になって、狭いホテルの部屋で、
ダルシャンの様子を収めたビデオをモニターで再生してみた。
サイババが、「カム」と最後に言っているのは確かだ。
そういうことで、英語のヒアリングの解答は一致した。
その、カムの前に何と言っているのかは、
何度テープを再生してもわからない。
たぶん「ホワイ ディド ユー カム」
だろうということにしたが、
正解が誰にもわからないので、いつまでも気持ちが悪かった。
実は、その時には、
かつてサイババにインタビュールームに呼ばれたという、
日本人信者のMさんもいたのだが、
ニューヨーク滞在も長いという彼も、
「カム、は確かですけど、ちょっとわからないですねぇ」
と首をかしげていた。
Mさんによれば、面接に招く信者には、
短く「ゴー」という場合が多いという。
とにかくどんなことを前にしゃべっても、
「ゴー」さえ聞ければブラボーなんだそうだ。
「カムでも、来いってことでいいんじゃないの?」と、
英語を仏語やヒンドゥ語と同じくらい得意とする私が
冗談を言ったが、虚しい笑いさえもかえってこなかった。
いくら話し合ってもラチがあかない。
翌朝は午前3時とか4時に起床しなくてはいけない。
そういう時の私たちのシメの言葉は
「とにかく、4回の可能性のうち、1回はダメだった。
あとチャンスは3回だから、
何とかインタビュールームに入れてもらえるように、
ガンバリましょう!」であった。
何だかとにかく、ガンバルっていうことだ。
そういうその日の結論だった。
招き入れるも入れないも、奇蹟を見せるも見せないも、
すべての決定の鍵はサイババが一方的に握っている。
歩み寄りとか、交渉とか、妥協、話し合いなんてことは、
いっさいないのだ。
あらゆる決定権が相手側のみにある時、
決定の場に参加できない側の人々は、
「不自由な状態にある」ということがいえる。
また、自由について悩まされちまった。
私たちは、この日サイババに、不自由を恵んでもらった。
ホラ、やっぱり片思いの男と同じ立場だよ。
「どうしたら彼女(ババ様)に
気に入っていただけるか?」と、
それを次々に考え続けることになっちまうんだ。
この関係を続けていくと、
知らず知らずのうちに「信仰」が
深まっていくことになるわけだ。
どうやって気に入られよう。
信仰についてもっと求道的なポーズを取るべきか。
しかし、本気で取り組んでない信仰にだまされるようじゃ、
神とは言えないよな。
日本人なら日本人らしく、
金を積むという方法はないものかとも考えたが、
私たちに金はないし、それを受け取ってくれる神様じゃ、
これまた信用ならない。
何も通用しないのだ。
すべて、ババ様の御心のおもむくまま。
自由という名のカードは、
神であるババ様のみが持っているということを
思い知らされた第一日ではあった。
「初めてのダルシャンで
声をかけられただけでもスゴイですよ。
インタビューの可能性は大いにありますね」と、
Mさんは、なぐさめともはげましともつかぬことを
言ってくれた。
しかし、私たちは、信仰への階段を
昇っているわけではないのだ。
運動会の騎馬戦のように、帽子ならぬ指輪を取ったら、
すぐに逃げ帰ってもいいというくらいの気持ちなのだ。
そんな馬鹿野郎どもの目を醒まさせてくれるような出来事を、
馬鹿野郎自身も期待していた。
翌日、早朝4時から準備して
朝のダルシャンに出席した私たちに、
惚れた相手は、一瞥をくれただけで通り過ぎた。
1度目で声をかけてもらったから、
2度目はもうちょっと親しくなってという、
私たちの甘い期待は、水をかけられたかたちになった。
眠いし、無視されたし、で、私は少々不良化していた。
ダルシャンという儀式が、
サイババに招かれるチャンスなのだが、
信者たちはその後ももう一度集まって、
バジャンという集会をやる。
バジャンは神を讃える歌を一斉に歌う儀式で、
「歌の好きな」サイババは、
ここでは椅子に腰をかけて信者たちの
歌を楽しげに聴いているという。
ババ様は、神を讃える歌を、
信者の集団と対面するかたちで聴く。
つまり、天だかどこだかにいる目に見えない
絶対神のようなものを讃える歌かと思ったら、
神そのものであるババ様を讃える歌を聴いているらしいのだ。
不良化した私は、そのバジャンという儀式は退屈なだけで、
招かれるチャンスもないと考え、参加をお断りした。
参加してくれと頼まれたわけじゃないけれど、
「惚れたが悪いか男」も、たまには、
小さな自由のカードを行使してみたくなるのですよ。
後で聞くと、神の化身は、
バジャンの後でちょうど私たちの
座っていたあたりに戻ってきて、
近くのインド人学生たちと
長々と語り合っていたというではないか。
なんか、考えようによっては、
ずいぶん当てつけがましい行動ではないか。
「せっかく私があなたに会いに行ったら、
あなたったら、いなかったじゃないの。
愛してるとか言ってたくせに、ホホホ」と、
怖い顔してババ様が笑ったかどうかは、知らない。
そうそう、そういえば、信者の方々の話では、
ババ様というのは、
とてもユーモアのある方で、
たまにおっしゃるババ様のジョークは
腹を抱えて笑うほどおかしいのだそうだ。
しかし、これだけは断言できるね。
そんなことは絶対ない!
曲がりなりにもお笑いの審査員だってやってた私だ。
あの顔の、禁欲をすすめる男のジョークが、
そんなに面白いわけがない。
それこそが、アバタもエクボというやつだ。
せいぜいが昔に流行した
「なんちゃって」程度のものに違いない。
「アジャパー」くらいなら、まだましなほうだ。
こんなことでムキになってもしょうがないんだけどさー。
ま、とにかく、半分のチャンスを逃した。
次こそ、その日の夕方のダルシャンこそと、
私たちは気を取りなおした。
そのころには、サイババのことを怖いとも、
感じなくなっていた。
不良学生が教師をなめるようなことなのだろうか。
最初はフリークスにも思えた。
「生きている神」という実感が、
いつのまにか消し飛んでいた。
「高慢な女にもてあそばれてるみたいだな」
と話し合った相手のムラマツは、
「イトイさん、あの女は性格が悪すぎますよ。
別れたほうがいいかもしれない」
と、逆に立腹し始めていた。
実際、私も似たようなことを考えてはいた。
サイババについての本を、資料としては読んだけれど、
信仰の対象としては読んでいなかった私たちだ。
「神の化身」という超大看板をかかげているサイババが、
こういう馬鹿を相手に「神であること」を証明するためには、
午前と午後に2回ずつ手から灰を出すだけでは
足りなかったということなのであろう。
アシュラムのなかでは、各国から来たさまざまな信者たちに
「ババを信じてから幸せになった話」を聞いたり、
「ババに甘露を物質化してもらってなめてみたら、
この世のものとは思えない味がした話」を
してもらったりしたけれど、
私たちにとっては、何の腹の足しにもならなかった。
ババ様がインタビュールームで
物質化してくれたという指輪をはめている信者も、
ずいぶんいて、
うらやましい気持ちでひとつずつ見せてもらったけれど、
緑の石のついた指輪と、
サイババのプロフィールが
レリーフされた指輪がほとんどだった。
その2種類とも、別々の人の指にはめられていたのだが、
まるで大量生産品のように同じであることも、
ちょっとサミシイものがあった。
同じタイプの指輪は、
取材によると同じ年に「物質化」したものらしい。
それにしても、神様が「自分の横顔」の指輪を
わざわざ出すものかねぇ、
といった、押しの強さに対しての反撥もあった。
たった2度、「神の化身」を目撃して、
つれないそぶりをされただけで、
もう私たち好奇心のみ野郎は、グレ始めていたのだ。
だが、何千人もの信者の群れは、
1カ月も2カ月も、
さらには半年も1年も声をかけられなくても、
うれしそうにダルシャンに出てきて、
行列をつくって炎天下の地面に腰をおろして待っている。
その人たちは、
そうやってサイババを崇め続けていることそのものを、
互いのはげみにして信仰を持ちこたえているのかもしれない。
「101回目のプロポーズ」の武田鉄矢を見ている恋する男なら、
99回目、100回目のひじ鉄に耐えられるということなのか。
それにしても、わざわざいい席に呼び入れておいて、
テレビカメラも回させておいて、
近づくことを許さないとは、
まったく神様にしちゃずいぶん
ケツの穴が小さいんじゃないのかね。
煙草のことで考えたことを、また私は考え始めていた。
もう最初の時みたいに、緊張もしてないし、
次のダルシャンでは、
こっちから強い目でサイババを見てやろう。
そのくらいの度胸はついていた。
人間のカタチをした神だっていうから、
恐れてもいたが、イ
ンドの小柄な超能力者だと思えば、怖くはない。
ほんとうにホンモノなら、
ユトリで私たちを招き入れて、目の前で奇蹟を見せればいい。
何でもお見通しの神様だったら、
日本から来たこの馬鹿どもの胸のうちくらいは
スケスケに見えているはずだ。
奇蹟の逆転サヨナラ満塁
ホームランで驚かせてくれるに違いない。
そしたら、オレなんか、
もう大改心して崇めたてまつって、
ババ様のために命だって投げ出しちゃうくらい
軽率な男なんだぞ!
自慢じゃないけど。まいったか、神様野郎。カモン!
実は、いま、原稿を書いてる時点では、
こんなふうに整理して自分の心理を誇張してますが、
インドの奥地にいる時の私は、もう少少混乱していたのです。
心の奥では、ま、こんな感じだったのだが、
表面的には、やっぱり多少イイコを続けてみて、
なんか好かれたいという考えも、捨てきれてはいなかった。
ただ、その日の夕方のダルシャンについては、
私には、サイババのシナリオが読めるような気がしていた。
これは、ババ様が「人間」であると仮定しての予想だが。
声をかけて、見つめて、
いない時に寄ってきて……と展開してきたら、
次は「まったくの無視」がくる順序立てになる。
女が男と恋の駆け引きをするなら、
そういうシナリオを描くに違いない。
ここで、強い情熱を引き出すための「休符」が必要なのだ。
私たちの座る位置の近くには、
インド人の子供たちの集団があった。
サイババは子供が大好きだから、
きっとこっちに来るとMさんが私に耳打ちする。
いや、来ない。来るとしたら、
一気にインタビュールームに招き入れるという
大穴的展開しか考えられない。
しかし、それはないだろう。まったくの無視。
うれしいわけじゃないけど、賭けてもいいや。
彼が人間なら、そうする。
(つづく)
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