_____インドの日々_____
夢のようなお家やお庭を拝見して、
マイケル・ジャクソンを思い出してしまった馬鹿。
葬式の時にかぎって
笑いだしたくなるというやつがいるけれど、
インドに到着してからの私は、
冗談を言いたくてたまらなくなっていた。
知らず知らずのうちに、
聖と俗のバランスをとろうとしているのだろうか。
手のひらを下に向け、
くるくると回転させて聖灰を出すのが、
サイババのひとつの「芸」なのだが、
そのマネをして煙草の灰をまき散らしてみる。
「オレが、ジジ様だ」やっていて虚しいのはわかっているが、
そんなことばかりやりたくなる。
灰をまき散らすのも、煙草の灰であることが、
いちおうギャグのポイントで、
ババ様(私たちは、信者たちがサイババと呼ばずに
『ババ』とか『スワミ』(先生)とか呼んでいると知って、
いつのまにか彼のことを、
ババ様と呼び習わすようになっていた)は、
喫煙の習慣を「悪癖」であると、おっしゃっておられる。
アシュラム(修練場)内は禁煙であるということが、
行く前から、私にとっては大プレッシャーであったのだ。
もうひとつ、とてつもなくくだらない小咄。
サイババは、直接奇蹟を与えるだけでなく、
まったく思いがけないかたちで
神の御心を現すことがあるという。
前号でちょっと登場してもらった青山圭秀さんという人は、
サイババに「物質化」してもらいたいと思っていた
ムーンストーンのついた指輪を、
アシュラで知り合ったユーゴスラビアの女性の指に見つけ、
「フフフッ、じゃあ、あなたにあげるわ」と、
頂戴しちゃったのだという。
こんなさりげないやり方で、
望みをかなえてくれるサイババは、
やっぱりスゴイぞってことになるわけだ。
で、ね、ここからは冗談なのだが、
<ある男がサイババに会って、帰国した。
夜中にふと小便をしようと思って息子をとり出すと、
いつもと違う重みを感じる。
「おお、大きくなっている」。
彼の妻も微笑んで証言した。
「すっかり頼もしい夫になって、幸福です」。
サイババは、こんなふうに奇蹟を与えることもある>
くだらない。しかし、こんなくだらないことを言ってないと、
何か不安なのだ。
信者になってもいい、と覚悟を決めて来たはずなのに、
冗談で武装している。
これは私の血のようなものなのかもしれない。
さて、ニューデリー経由でバンガロールという、
「南インドの軽井沢」と
誰か日本人が仇名した地方都市に私たちは向かった。
サイババの本拠地はここからクルマで
5時間ほどのところにあるブッタパルティという村なのだが、
この軽井沢近郊のホワイトフィールドという
(何故か英語名で、しかも少女趣味な地名)
ところにもババ様は支所を持っている。
夏のあいだは、そこにいらっしゃるらしい。
神の化身も夏は避暑地にいるというのが、
人間の姿をしている因果を感じさせてくれて笑える。
ホワイトフィールドのアシュラムを案内してもらった
私たちは、特別の人しか入れてもらえないという、
ババ様の家の門をくぐらせていただく。
広めの庭に、造花のようにも見える花が咲いていて、
白い鳥が歩いている。
案内してくれた元・英国軍隊のエライ人だったという信者は、
私たちに特別にといった感じで、家の扉を触らせてくれたり、
滞在中はじかにサイババが 餌をやって可愛がるという
モルモットや、 ウサギなどの小動物のオリを見せてくれた。
お菓子のコトブキみたいな、
白やピンクや淡いブルーを基調にした
おとぎ話に出てきそうなデコラティブな家、
ひと昔前の原宿でヒッピーくずれの画家が売っていた
風景画のような庭園。
そこでウサギに餌をやっている
篠山紀信ヘアーの色黒の老人...
これでは、マイケル・ジャクソンの
インド判パロディではないか。
幼いころから、生きものを殺生することを嫌う
少年だったというババ様だけど、
1926年生まれの68歳の男が、
こんな景色のなかで小動物と遊んでいる図を、
本気でありがたがれる信仰者とは、
ふだん何を考えている人々なのだろうか。
おっと、また不遜なことを考えてしまった。
少年を犯罪的なまでに可愛がり過ぎた世界的アイドルと、
神の化身を重ね合わせて考えてるなんてことを、
当のババ様に見通されたら、
インタビュールームに招かれて指輪を
「物質化」してもらえなくなっちまう。
その後、アシュラムに隣接する、
サイババが総長を務めるという大学を見学。
学生たちは、みんな利口そうで、体格も立派で、
いかにも将来のインドを背負って立つエリートという印象。
文字を読めない人が60パーセントともいわれるインドで、
大学教育を受けているというだけでも、
もうすでに大エリートの
資格を持っているということになるのだろう。
こういう学生たちという優秀な(神ならぬ)人間たちを、
現世で活躍させることで、
サイババは「神に甘えるのではない」
人間たち自身による幸福の国を
建設させようとしているらしい。
このあたりの考え方は、
神というより政治家の発想にも似ている。
大学をつくるマイケル・ジャクソン?
いや、いかんいかん、また余計なことを想像してしまった。
大学の構内には、いたるところに、
サイババの御言葉を英語で表現したスローガン看板がある。
私ゃ、英語は仏語や独語と
同じくらいしか理解できない人間なので、
正確には読みとれなかったのだが、
「LOVEが大切さ」というようなことが、ほとんどだった。
一時期のフォークソングや、
素人バンドの歌詞のような印象で、
私としては、
「ちょっとイージーに走りすぎてるんじゃねぇか」
と思わざるを得なかった。
しかし、単純なメッセージほど、深そうに見えるし、
遠くまで届くし、長持ちする。
「LOVE」は、
メッセージ界のジョーカーみたいなもので、
効率よく他人をひきつけられる絶対の単語だ。
しかし、ラブって、西洋の概念じゃなかったっけ?
しかも、ラブの上に、エゴを超越した
アガペーとかいう愛の上位概念があるんじゃなかったっけ?
私は、再々度マイケル・ジャクソンと
少年とのあいだに愛はどうだったのかなぞという
清らかでないことを考えてしまった。
結局、サイババの教えって、LOVEか?だとしたら、
この神の化身は、指輪を「物質化」して
プレゼントしてくれること以外に、
メジャーな表現はしていないということにもなりそうだ。
私の好奇心の方向は、
インドに着いてから「不思議、大好き。」から
「不思議って何?」のほうへ向かっているようである。
好奇心だけでインドにやってきた
テレビカメラかついだ馬鹿どもは、
心の奥では奇蹟を信じたいのであります。
スプーン曲げや霊視を笑いとばすような、
とんでもない力に出会って、
その前にひれ伏したいのであります。
いろいろと難クセはつけておりますが、
これはシンディ・クロフォードのボディにも
盲腸の手術跡があるんじゃないかとか
噂しあう井戸端会議みたいなものです。
サイババ様が、私たちをその有名な
「奇跡工場」のようなインタビュールームに迎え入れ、
「ほんとに不信仰なやつらめ、見よ!」
とばかりに心を改めさせてくれることこそ、
願っているのです。
会えるような気がしていた。
私個人としては、変な自身を持っていた。
私たちに会って目の前で奇跡を見せて、
悪いことはサイババにとって何もないはずだもの。
あとは、煙草の問題だけだなぁ。
招待状とひきかえに禁煙するなんてこと、
神様がよろこぶとは思えないし、なぁ。
ホワイトフィールドのアシュラムと
学校を取材してから4日間ほどはサイババに近づく仕事はなかった。
東インドのとある小さな門前町が「占いの村」だった。
ま、日本でいえば神社でおみくじを
ひくようなものか?
神秘でも何でもなかった。
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バンガロールから、トラックのシャシーにバスのボディを
無理やり組み合わせたような「慢性大地震」としか
言いようのない乗り心地のバスで、東に8時間走り、
1泊してさらに6時間行ったところに、
「やしの葉予言」の占いをする人がいるという。
これも前号で紹介した『理性のゆらぎ』の著者の
青山さんが文芸雑誌のエッセイに書いていたことなのだが、
当の青山さんはその「やしの葉予言」に関する
新しい本を書き下ろし中とかで、
事前には会ってもらえなかった。
本来なら、せっかくインドの奥地みたいなところで、
いまも行われている神秘について教えてもらえたのだから、
「われわれは、企画のパクリをやるつもりはないのです」
というあいさつをして、
できたら一緒にその神秘について考えたかったのだが、
残念だった。
サイババについて教えてもらい、
さらに神秘の占いについても知らせてくれた医学者に
何の断りもなく現地に向かうというのは、どうも気が重かった。
「ま、本を読んで、それをたよりにインドへ行く
OLみたいな感じで行くってことにするかね」と、
仕方なく自分を納得させて腰を痛める長旅に出発した。
その古代インド神秘の占いというのは
「アガスティアの予言」というものだそうで、
エッセイを読むと、とにかく気持ち悪いほど当たるらしい。
文脈から判断すると、
インドの人もよく知らないような奥地の村に、
2千年前の予言をいまも行っている占い師がいて、
青山さんは運よくそこを訪れることができたらしい。
やしの葉っぱに、ひとりの人間のデータが
こと細かに刻み記されていた、そこに、
過去、現在、未来のその人の運命が書かれている、と。
エッセイには、驚異的な占いの的中の様子が書かれ、
オチまでついている。
「この葉は、世界中の人の数だけあるのか」
とたずねたら、
「(運命的に)ここの来る人の数だけ」
と答えられたというのだ。
どうです。すごいでしょう。
サイババに会えるかどうかも、
この占いでわかるに違いない。
「あなたは、近いうちに神の化身に会うであろう」とか
「神の化身を見るが、面接はできないですぞ」とか、
イトイの葉っぱに刻みこまれているというわけだ。
結果は...短くすませよう。
「アガスティアの予言」は、
インド人コーディネーターの尽力で、どこにあるかわかった。
そして私たちは、往復宿泊含めて4日間も、
そのためにかけた。
「せっかく来たんだから、
やってもらおうか」と気乗りのしない
糸井さん。占いによれば79歳までは
生きるらしいが‥‥。 |
そこは、東インドのとある村であった。
村は、ヒンドゥ教の古い寺院を囲むようにして存在する、
いわば門前町のようなところで、
「アガスティアの予言」という「店」は2軒あった。
「アガスティア」から分派したり本家争いをしたりで、
さまざまな聖人の名前を冠につけてははいるけれど、
その村で「やしの葉予言」をする
「店」は100軒もあるという。
インド人の真面目なコーディネーター氏は、
すでにわざわざここまでロケハンに来てくれていて、
調査の結果、 「やしの葉」が最も多く残されている
「店」がよいのではないかと助言してくれた。
占いのシステムはどの「店」も同じであるという。
まるで、温泉まんじゅうの土産屋を選ぶみたいなものだ。
いちばんうまいと評判の行列の
できる店に行こうという発想だ。
私は、占いの村という存在を知った時点で、
もうすっかりやる気をなくしてしまった。
実際に見せてもらった「やしの葉」は、
こっちで勝手に想像していたような
葉っぱ型の葉っぱではなく、
たんざく状のカード型に成形されていて、
ひもを通して1冊ずつの本のようになっている。
私の生年月日をたずねて、1巻の「本」を探すと、
占い師は質問を始める。ごく簡単に言えば、
「あなたは男か?」と聞いてきて、
私が「はい」と答えたら、
そのカードの続きの質問にうつる。
「いいえ」と答えた場合は、
ページをめくるように、次のカードの質問に切り替える。
早く言えば、古代インド式のイエス・ノー・テストである。
無理にインドの神秘と結びつければ、
1と0の組み合わせの
プログラムで人間の運命を知るのだから、
手動式コンピューターであるとも言える。
さすがは「0」の概念を発見した人々だ。
私の占い結果は、どうやら私は79歳で死ぬらしい。
未来のことは、当たっている可能性もあるが、
過去については、
あれほど私がていねいに答えてやったにもかかわらず、
あきれるほど外れている。
オレは新聞屋じゃないってば!
もちろん、サイババに面会
できるかできないかなんてことには、
いっさい触れてない。
なんだったんだよ、この4日間の強行軍はよォ。
「アガスティアの予言」について知るキッカケになった
青山博士の名誉のために付記しておけば、
私たちは「アガスティア」の名が冠につく
「店」には入ってはいない。
ひょっとすると、「アガスティア」の予言だったら、
もっと奇蹟的に当たったのかもしれないという可能性はある。
とまれ、私たちは、無駄にした4日間にこだわってないで、
御本尊のおわしますプッタパルティに急ぐことにした。
「占い師のところに、
すいぶん深刻な顔をしたインド人の客がたくさんいたけど、
あれ、信じてるんだろうなぁ」
「遠くから来てるんだから、
信じなきゃモトがとれないって気持ちになりますよね」
「それ、オレたちに似てる?」
(つづく)
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