連載が長くなるにつれて
ひとつの大きな物語をかたちづくっていくことがある。
読む人たちは各回のエピソードと
全体の大きな流れの両方をたのしむことができる。
キューライスさんの作品のなかでも、
『チベットスナギツネの砂岡さん』や『悲熊』など、
そういう傾向があるものは多いと思う。
基本は毎回のエピソードをおもしろがりながらも、
だんだんキャラクターが増えていったり、
過去や設定が明かされたりすることをたのしむ。
『すず色のモーニャ』も
そういう感じなんだろうとぼくはうっすら思っていた。
けれども、連載がはじまってからわりと早い段階で
「いつもの感じ」ではないことに気づいた。
抽象的な言い方になるけれど、
『すず色のモーニャ』はどことなく
「物語が先を急いでいる」のだ。
といっても、
びゅんびゅん話が進むというわけではない。
キューライスさんならではの独特の間や、
そんなところにたっぷりコマをつかいますか、
というような場面はもちろんある。
とりわけ、ドロシーの飼い犬のトトがしゃべりだすと、
コマの無駄遣いが加速するのがたまらない。
トト、ほんと、おもしろい。
作者にはおそらく目的地が
見えているのだということが
読みながらはっきりと伝わってくる。
気を抜くとその道すじを外れてしまうから、
横道や行き止まりのおかしさを表現しつつも、
目指す場所に向かって歩を進めることを
いつも意識しているように感じられる。
『すず色のモーニャ』の底には、
物語がずっとあるスピードで流れている。
キューライスさんの作品を読んでいる人ほど、
なにかこれはいつもと違うぞ、とうっすら感じる。
そしてそれは、展開の多さや進行の速度ではなく、
たとえば切なさの表現となってにじみ出る。
大きく流れる物語特有の、ちょっと切ない感じが
『すず色のモーニャ』という物語の
あちこちにアクセントをつける。
この物語を速く描ききりたかったのだと思う。
息継ぎせずに泳ぎきりたかったのだと思う。
つい寄り道したくなる自分をおさえて、
モーニャとドロシーの運命を
最後まで導いてあげたかったのだとぼくは思う。
そういった、物語の根っこのところに流れる、
ある種の性急さのようなものが、
この『すず色のモーニャ』という物語を
かけがえのないものにしているのだ。
キューライスさんの作品にしてはめずらしい
「長編」の漫画なのだけれど、
そうはいっても、この1冊で完結する。
ほかの漫画に比べれば、
短いとさえいえるかもしれない。
だから、これ以上、先の話は具体的にはもう書かない。
(ていうか書けない)
かわり、ひとつ、エピソードを。
連載中、物語が思わぬ方向へ展開していって、
ぼくはどきどきしながら更新を待っていた。
そして、ある回の最後のところで、
びっくりしてしまった。
ぼくは以前、キューライスさんに
お仕事をお願いしたことがあったので、
連絡先を知っていた。
それで、漫画の読者としては
ちょっと反則だと思うのだけれど、
思わずキューライスさんにメールを出した。
反射的なメールだったから
「驚きました」という程度の短い文面だった。
ほどなくして返ってきた、
キューライスさんからの返事も短かった。
「辛いです。」とそこには書いてあった。
そういう物語を、
キューライスさんは描ききったのだと思う。
長くなってしまって、すみません。
もうすこし語りたいことがありますので、
あと1回分、続けますね。