吉本隆明リナックス化計画(後編)
2008-07-14
前々回の<耳からの理解。耳のたのしみ>、
そして前回<吉本隆明リナックス化計画(前編)>の続きです。
さて、「高いといっても安い」と言われたい講演集
『吉本隆明 五十度の講演』はつくれることになった。
しかし、問題は山積していた。
いや、暗くつらく考えていたというわけではないけれど、
考えなくてはならない問題は、いくらでもあるに決まってる。
だいたい、講演の音源が商品になって、
商業的に成功した例というものが、ないらしいのだ。
むろん、こういう企画は、商業的な成功よりも
文化的な意義というところにテーマがいってしまうので、
売れなかったから失敗とは言われないことが多い。
しかし、実際のところ、
ぼくらの仲間うちでは「あれはいいね」と言い合っている
小林秀雄の講演集にしても、売れ行きの途中経過として、
「あまり芳しくない」という話を聞いたことがある。
そもそも、弓立社の講演全集の構想にしても、
順風満帆だったら、ぼくらが関わる必要もなかった。
しかし、ぼくは「ほぼ日」という小さなメディアで、
直接に読者の声を聞きつづけているうちに、
あまり常識的でない、
よくいえば新しい考え方をするようになっていた。
「コンテンツの力を信じる」ことが、
どんなマーケティングにもまして大切だということだ。
それじゃ、昔からの自称「良心的」出版社と同じじゃないか、
と思われるかもしれないのだけれど、
かなりちがうのだ。
力のあるコンテンツは、まず「基礎票」を持つ。
その基礎票が、「ほぼ日」ではアクセスやメールによって、
目に見えるようになる。
そして、その基礎票がダイナミックに反射しあったり、
結合したり、新たなニュースを生み出したりして、
「それなりの市場」をつくってくれるのだ。
「それなりの市場」というのは、文字通り「それなり」で、
たくさんの利益を生み出すかどうかはわからない。
ただ、賭博をするような危険を感じないで、
「失敗しても、限度はここまで」というふうな覚悟で、
落ち着いて思いきったことができる。
また、どういう流れになろうと、
あきらめないで次の方法を考えつづけていくと、
新しいつながりや、別の方法が生れていくこともある。
そういう実験は、ぼくは「ほぼ日」で何度もやってきた。
「コンテンツの力を信じる」ことは、
今回の場合、むつかしくない。
自分の耳で何度も何度も聞いて、
さまざまな意味で「御利益」があったのは、
誰よりも自分がよく知っている。
本でも同じことなのだけれど、講演の声と言葉も、
聞く耳のほうの準備ができていたら、
どこまでも深いところに染み渡るはずだ。
そんなふうなことを真剣に考えながらも、
実はもう、制作は進行しているわけだ。
すでに人の手もかかっているし、さまざまな契約関係も結ばれる。
監修の吉本さんのところにも何度も通って、
いろんなことが決まっていく。
編集作業や、デザイン、販売に関わる会議もふえる。
講演の音声をデジタル化したことで、
無視できないこともある。
商品として個人に販売した音源を、貸し借りされたら、
それは何度でもコピーされてしまう。
単純にいって、それは権利の侵害であり、
強い言い方をすれば「ソフトを盗む」ということになる。
デジタルの音源は、コピーしても劣化しないから、
売っているものと同じものが、盗れるというわけだ。
それをどうするか、コピーをガードする方法を考える、
ということも考えられるだろう。
ただ、正直をいえば、こんな気持ちがある。
「吉本隆明さんの講演を、コピーして聴きました」
という若い人がいたら、ぼくはどう思うだろうか。
そうか、おもしろかったか、と言って、
少し親しい気持ちになるのではないか。
考えてみれば、無料でソフトを利用するという意味では、
図書館で買った一冊の本が、何人もの人に読まれるのは、
権利という面からいえば、大きな問題だ。
その著作で生活を成り立たせている作者からすれば、
図書館の本を借りて読む人のことは、
複雑な思いでみることになるだろう。
しかし、コピーを徹底的に防ごうとしても、
できることはあんまりない。
もともとは、たくさんの人が、
この埋もれかけた「時代の財産」ともいうべき講演の記録に、
触れてくれたらという企画だった。
だとしたら、たくさんの人が聞きたがるという意味では、
海賊版というか、コピーが増えてしまうことは、
よいこととも言えるのではないだろうか。
思えば、ソクラテスにしても、イエスにしても、
古代の人たちのことばを、
ぼくらは自由に憶えたり、引用したり、勝手に使っている。
時間が経ってそれでも忘れられないで残る言葉というのは、
ほんとうにみんなのものになるんだなぁと思いがある。
そういうものと、吉本隆明さんの講演を一緒にしたら、
誰よりも本人がいやがるかもしれないけれど、
そんなふうな使われ方ができるようなコンテンツとして、
この講演集はあると思えた。
しかし、だ。
ぼくらは、ただの良心的な人になるのはいやだった。
「利益を度外視して、善いことをする」
というふうなことなら、思いきりさえあれば誰でもできる。
こころの底の動機の部分では、
なんでもお手伝いしますというような気分はあった。
でも、そういうものはだいたいうまくいかないのだ。
大儲けをしないとしても、損をするつもりで仕事をするのは、
ぼくは自分にも禁じている。
「赤字は出さないぞ」と本気で考えるだけでも、
無料の奉仕よりもうまくいくと、思っている。
だいたい、利益が出せなかったら、
この貴重なコンテンツをわざわざ掘り出したことが、
ただの道楽のように見えてしまうではないか。
さらに、ぼくの仕事は、それなりの人数の人たちと
力を合わせてやっているものだ。
小さいなりに会社という組織のかたちで仕事していて、
それで、自分や自分の家族の生活を成り立たせている。
ぼくの役目は、そこの代表取締役というやつでもあって、
情けなくてもタコ社長でも、経営の責任を持っている。
知りあいばかりの株主への責任はともかく、
利益をあげることをバカにしていたら、
仲間たちへの責任を果たせないということも、わかっている。
利益は、しっかり追求するべきだ。
しかも、たくさんの人に配って役立ててほしい。
そして、みんなの財産として時代を超えて残せたらうれしい。
‥‥ぜんぶを実現する方法はないか?
集中して考えたら答えがでる、というものでもない。
なにもかも解決できる見込みが立ってから、
仕事をはじめるというわけにはいかないのだから、
具体的なひとつずつのことを、やっていくことが大事だ。
何度も何度も、考えるけれど、わからない。
「利益は、しっかり追求するべきだ。
しかも、たくさんの人に配って役立ててほしい。
そして、みんなの財産として時代を超えて残せたらうれしい。
‥‥ぜんぶを実現する方法はないか?」
そして、ある夜、ベッドに入って、
いつものようにiPodで吉本隆明さんの講演を聴こうとしていたとき、
「はっ」と、思いついたことがあった。
いろんな人たちと会って話したり、
話したことを考えたりしていたので、
そういったものごとが、化学反応を起こすことになったのだろう。
原丈人さんの開発途上国での仕事のやり方、
「シルク・ドゥ・ソレイユ」が、
自分たちの出身地ともいえる路上の人々を支援するための計画を、
仕事に組み込んでいるという件、
などのことが頭のなかにあったと思う。
利益をあげるということと、いずれ無料で配信したいということ。
このプロジェクトをここまで単純に考えてしまえば、
自然にわかることがあった。
「買える人が買ってくれて、利益が確定したら、
そこからフリーソフトにする」というやり方だ。
ある程度の年齢の人なら、憶えているかもしれないけれど、
東京の首都高速という道路は、最初のうちは料金を取るけれど、
やがてフリーウエイになると言われていた。
建設費がかかるから、はじめから無料にはできないけれど、
やがては一般の道路と同じようにタダで走れるようになる。
公的な意味のある道路だけれど、
初期費用を走って利用する人にも負担してもらって、
やがてはほんとうに公的なものにする、ということだ。
実にいい考え方だと、ぼくは思っていた。
事実は、いまでも首都高速はあいかわらず料金を取っているけれど、
ほんとうは無料になっていたかもしれないのだ。
つまりは、その道路のような「吉本隆明講演集」はどうだろう?
ということを、考えついたのだった。
似たような考え方は、首都高速道路ばかりでなく、
海外にもあったことを思い出す。
王室だか、貴族だかの主催するコンサートに、
労働者階級の英雄であるビートルズが出演したときの話だ。
『ツイスト&シャウト』を演奏する前に、
客席に向かってジョン・レノンが言ったという。
「これから演奏する曲は、
みなさんもリズムをとって手伝ってください。
安い席の人は、拍手をお願いします。
お金持ちの方々は、宝石をジャラジャラさせてください」
正確には知らないのだけれど、このセリフは、
高校生だったぼくをおおいに喜ばせた。
ジョンの発言には、イギリスっぽい皮肉な意味があるけれど、
お金持ちと、そうでない人が、いっしょの場面にいて、
それぞれにできることをする、という図は、
なんともどちらにとっても愉快なことだ。
それを実現させてしまう魔法が、ビートルたちにはあった。
ぼくは、ベッドから抜け出て、居間に戻って明かりを点けた。
忘れないように「ほぼ日手帳」に、記した。
「吉本隆明リナックス化」「ビートルズ・じゃらじゃら」
「首都高速」「プロジェクトとしての定価という考え方」
なんども同じことを記すけれど、
利益は、しっかり追求するべきだ。
しかも、たくさんの人に配って役立ててほしい。
そして、みんなの財産として時代を超えて残せたらうれしい。
‥‥ぜんぶを実現する方法はないか?
できるかもしれないではないか。
「いずれ無料になるとわかっている高額商品を、
買う人がいるのだろうか」という意見は、むろんあるだろう。
さらに言えば、
「高額の支払いをした人と、無料の人の間に、
強い不公平感が残るのではないか」という考えもある。
これについては、何も言えない。
ビートルズの演奏に「宝石をジャラジャラ」させた人と、
同じ種類の人たちではないのだろうけれど、
いま現在、ある程度の買い物ができる人が、
後輩たちのために見えない「寄進」をしてくれたら、
すべてはうまくいくというわけだ。
先に、お金を出して買った『吉本隆明 五十度の講演』という
パッケージ商品に、なんの損する理由もない。
しかし、後でフリーソフトになるものに、
お金を払うことは損だと思ったら、それはその通りだ。
ここからは、どう考え直すこともできなかった。
どっちで行くのだ、というだけのことだ。
「フリーにしない」という方針を決めるか、
やがて「フリーにする」という前提で、
利益の目標を立てることにするか。
ぼくは、後者のプランを採用することにした。
どうしてか?
おそらく、そういうビジネスは、とても珍しいし、
この先に、いろいろ応用できそうな考え方だと思ったからだ。
それと、このせちがらい時代に、
こういう事情を理解してくれて、
パッケージ商品を買おうと言ってくれる人が、
ちゃんといる社会のほうを、ぼくは好きだと思ったので、
このケースでは、「そっちに賭けた」のだった。
著作権者であり、このプロジェクトの監修者でもある
吉本隆明さんに、このことを話した。
「ははぁ、そりゃ、ははぁ。
まかせたんですから、イトイさんの思うようにしてください」
という、かなり予想通りの返事がきた。
その場にいたテレビ局の人は、このプランをおもしろがってくれた。
結果がどうなるかについては、まだぜんぜんわからない。
だいたい、「講演を音源で入手して、聴く」というふうな
習慣そのものが、一般的にはないことになっている。
それに、「思想界の巨人」などとあだなされるくらいの人が、
真剣にしゃべったことが、6943分、
まるまる休みなしに聴いても5日間にもなる「商品」ですから、
ぜんぶを消費するだけでも大ごとだ。
それでも、買って後悔はしないと、ぼくは思う。
あんまり薦めすぎないように気をつけながら、
熱情だけはまるだしにしていくつもりだけれど、
迷惑だったら、御免。
計画がうまくいって、2年とか3年くらいで予定の利益が出て、
吉本さんにスピードボートを買えるぞ、というのが、
ぼくとしては獲ってもいない狸の皮算用なのだが、
いかなることになりますやら。
で、万事がうまくいったら、
現存するすべてのデジタル化した講演の音源、
約170回分は、ネット上から
フリーでダウンロードできるように計画している。
「そんなにうまくいきますかね?」と、
いまのところ、取材に来てくれて人たちが、
まったく心配してないようすなので、
しょうがないから、ぼくが心配する役も引き受けている。
でも、たのしみも、いっぱいなんですよねー。
人見記念講堂での『芸術言語論』もいよいよ今週だし、
がんばりまーっす。