第4回
いのちの価値は「鮮度」
- 土井
- やっぱり料理において
「鮮度」が占める割合って大きいんです。
茹でたての新鮮なほうれん草とか、
とれたての魚とか、もぎたてのりんごの
おいしさとかって、すごいんですよ。
そんなりんごなんて食べたら、
子どもたちが「うまい!」ということで、
うずくまって芯の芯まで食べきります。
これはほんとうです。 - 糸井
- ああ、そうですよね。
- 土井
- だけど鮮度というのは難しいもので、
そのりんごを「おいしいね」と
カゴいっぱいに家に持ち帰っても、
やっぱり2、3日でいのちの勢いが
どんどんなくなっていくんです。 - 糸井
- はい、はい。
- 土井
- で、いま、魚にしても
「鯛やヒラメは食べる前に1日置いたほうが
アミノ酸が増えるからいい」
というような考え方がありますけどね。
もちろん科学的に、
数値だけでいうたらそうですよ。
食べたら「あ、やっぱり甘いね」てなもんですわ。
だけど、漁師の人たちが食べてるような
ほんとうにうまいものって、そんなんじゃない。
ポンッと出せば、みんなが
「うまいなー、なんでこんなうまいねん」
って感激するくらいのものですわ。
いのちの価値には
数値化できないものがあるんです。 - 糸井
- まさしく生きてるという
「ライブ感のようなもの」というか。 - 土井
- そうです。
そこのうまさって、とんでもないんです。
そういう原点のおいしさに対抗するものとして、
科学的根拠はちょっと迫力が足りないですよね。 - 糸井
- もちろん分量などの科学的な視点は、
なにか結果を出すためには
まちがいなく良い方法ではあるけれども。 - 土井
- もちろんそうなんです。
それはそれで、わたしも大事にしてますし。
両サイドがあるんですよね。 - 糸井
- ええ、ええ。
- 土井
- 鮮度をどう解釈するか、ですけど、
たとえば冬に田舎の、屋根に雪が積もって
ギシギシ言うような昔ながらの家を
訪れるとしますよね。
すると鉢いっぱいに野沢菜を出してくれて、
もう、感激するぐらいおいしいんです。 - 糸井
- でしょうねえ。
- 土井
- そして「おいしい」って言ったら
同じ分、あるいは倍ぐらいの量くれるわけです。
でもそれも‥‥持って帰ったら、
もう不味くなる。 - 糸井
- はい、はい。
- 土井
- なぜ不味くなるかということですけど、
わたしはふだんからそういう理由を
考えるのが好きなんですね。
で、漬け物がおいしい理由って、
やっぱり微生物の働きなんです。
そして微生物って、2度ぐらい温度が変わるだけで
生態系がごろっと変わるんです。 - 糸井
- ああー。
- 土井
- 山奥の氷が張るような土地の漬物樽では、
そこで生態系が完成しているわけです。
だから持ち帰ると、どーんと温度が上がって
いっぺんにダメになる。
そしたらもう、ほとんど
死骸食べてるようなものですよね。 - 糸井
- なるほど。
いちばん動かないような状態にしていても
発酵するくらいのものだから。 - 土井
- そう、ほんとうに生きてるんですよ。
「鮮度が落ちる」とは、
いのちがなくなっていくということ。
生態系が変わっていくということなんです。 - 糸井
- そうですね。
- 土井
- おいしさというのは、そんなふうに
「鮮度」とものすごく関わってます。
ですから現地で食べるものには、
やっぱりほんとに魅力的なものが
たくさんあるんです。 - 糸井
- つまり、自分の体を動かして食べに行くのが
最高のレストランってことですね。 - 土井
- そのとおりです。
だけどいまは、すぐに大きな冷凍庫を用意して
「空港でも駅でも1年中売れるように」
とか、そういう発想じゃないですか。
それでいいのかなと思うときがありますね。 - 糸井
- 土井さんは旅もたくさんなさってますよね。
- 土井
- けっこうひとりでもいくんです。
あと、わたし自身が雑誌に
「こんな記事を作りませんか」と持ちかけて、
出かけることもありますね。 - 糸井
- 企画の持ち込みまでされるんですか。
- 土井
- はい、伝統野菜や地場野菜を
テーマにしたものとかですね。
交通費まで持ち込んでやることもあります。 - 糸井
- はぁー。
それは、自分がやりたいから。 - 土井
- そうです、自分がやりたいから。
わたしにはまだまだ知らないことが多くて、
それが絶対やりたいからです。
ぼくは昆虫採集が好きなので、
そういう感じですね。
行くたびに、同行するカメラマンに
昆虫とか、魚とか、野菜の写真を
たくさん撮ってもらってきましたよ。 - 糸井
- そうやって、年をとればとるほど、
原始人のようになるわけですよね。
何の情報がなくても飛びついて食べて
「うまかったー!」みたいなのを原点にしてる。 - 土井
- そうですね(笑)。
やっぱりそのあたりの感覚がないと、
料理も何もできないですから。 - 糸井
- そうですよね。
- 土井
- 10年くらい前、わたしに
「カルボナーラを作って」という
リクエストがあったんです。
だけど当時のわたしは作ったこともないし、
はっきり言って作り方も知らない。
だけどそのときは
山の炭焼き小屋のような場所に、
卵があって、ミルクがあって、
乾物のパスタがあるのを想像するわけです。
そしてハイジのおじいちゃんみたいな人が
お腹がすいて立っていて、
そのとき「どう作るかな?」とか考えるわけです。
そうしたら見えてくるものがある。 - 糸井
- 「きっと、こう作ったにちがいない」って。
- 土井
- そんな感じです。
そのとき浮かんでくる気分みたいなものを、
わたしはすごく大事にしたいんですよ。 - 糸井
- それは、作家のような仕事ですね。
- 土井
- いや、そんなすごいものじゃないんです。
だけど、いまは料理というと
レシピばっかりになってますけど、
料理の行為にはすべて
「どうしてこの人はこうしようと思ったの?」
が必ずありますから。
そこをイメージするのはおもしろいんですよ。 - 糸井
- ああー。
- 土井
- たとえばドーナツは、一般的には
きれいな輪っかのイメージでしょ?
けれども、たとえば子供の目でドーナツを見たら、
ちょっとだけ飛び出してる部分がカリカリしてる。
そしたら「このカリカリがいっぱいある
ドーナツを作ってみたい」とかね。 - 糸井
- わかります、食べてみたい。
- 土井
- ね? そうなんですよ。
そこから
「ふんわり部分よりカリカリが多いほうが
たのしいんじゃない?」とか
「生地をビヨーンと伸ばしたら、
おばけみたいなドーナツができるかも」
とか思うじゃないですか。
なんか、そんなことですよね。 - 糸井
- 土井さんは、作る側と食べる側の両方を
すごく行き来してるということですね。
食べたい、作りたい、食べたい、作りたい
‥‥っていう。 - 土井
- そこはそうかもしれないですね。
(つづきます)
2017-01-04-WED