2017 新春対談 家庭料理のおおきな世界2017 新春対談 家庭料理のおおきな世界

糸井重里

土井善(料理研究家)

いのちの価値は「鮮度」

土井
やっぱり料理において
「鮮度」が占める割合って大きいんです。
茹でたての新鮮なほうれん草とか、
とれたての魚とか、もぎたてのりんごの
おいしさとかって、すごいんですよ。
そんなりんごなんて食べたら、
子どもたちが「うまい!」ということで、
うずくまって芯の芯まで食べきります。
これはほんとうです。
糸井
ああ、そうですよね。
土井
だけど鮮度というのは難しいもので、
そのりんごを「おいしいね」と
カゴいっぱいに家に持ち帰っても、
やっぱり2、3日でいのちの勢いが
どんどんなくなっていくんです。
糸井
はい、はい。
土井
で、いま、魚にしても
「鯛やヒラメは食べる前に1日置いたほうが
アミノ酸が増えるからいい」
というような考え方がありますけどね。
もちろん科学的に、
数値だけでいうたらそうですよ。
食べたら「あ、やっぱり甘いね」てなもんですわ。
だけど、漁師の人たちが食べてるような
ほんとうにうまいものって、そんなんじゃない。
ポンッと出せば、みんなが
「うまいなー、なんでこんなうまいねん」
って感激するくらいのものですわ。
いのちの価値には
数値化できないものがあるんです。
糸井
まさしく生きてるという
「ライブ感のようなもの」というか。
土井
そうです。
そこのうまさって、とんでもないんです。
そういう原点のおいしさに対抗するものとして、
科学的根拠はちょっと迫力が足りないですよね。
糸井
もちろん分量などの科学的な視点は、
なにか結果を出すためには
まちがいなく良い方法ではあるけれども。
土井
もちろんそうなんです。
それはそれで、わたしも大事にしてますし。
両サイドがあるんですよね。
糸井
ええ、ええ。
土井
鮮度をどう解釈するか、ですけど、
たとえば冬に田舎の、屋根に雪が積もって
ギシギシ言うような昔ながらの家を
訪れるとしますよね。
すると鉢いっぱいに野沢菜を出してくれて、
もう、感激するぐらいおいしいんです。
糸井
でしょうねえ。
土井
そして「おいしい」って言ったら
同じ分、あるいは倍ぐらいの量くれるわけです。
でもそれも‥‥持って帰ったら、
もう不味くなる。
糸井
はい、はい。
土井
なぜ不味くなるかということですけど、
わたしはふだんからそういう理由を
考えるのが好きなんですね。
で、漬け物がおいしい理由って、
やっぱり微生物の働きなんです。
そして微生物って、2度ぐらい温度が変わるだけで
生態系がごろっと変わるんです。
糸井
ああー。
土井
山奥の氷が張るような土地の漬物樽では、
そこで生態系が完成しているわけです。
だから持ち帰ると、どーんと温度が上がって
いっぺんにダメになる。
そしたらもう、ほとんど
死骸食べてるようなものですよね。
糸井
なるほど。
いちばん動かないような状態にしていても
発酵するくらいのものだから。
土井
そう、ほんとうに生きてるんですよ。
「鮮度が落ちる」とは、
いのちがなくなっていくということ。
生態系が変わっていくということなんです。
糸井
そうですね。
土井
おいしさというのは、そんなふうに
「鮮度」とものすごく関わってます。
ですから現地で食べるものには、
やっぱりほんとに魅力的なものが
たくさんあるんです。
糸井
つまり、自分の体を動かして食べに行くのが
最高のレストランってことですね。
土井
そのとおりです。
だけどいまは、すぐに大きな冷凍庫を用意して
「空港でも駅でも1年中売れるように」
とか、そういう発想じゃないですか。
それでいいのかなと思うときがありますね。
糸井
土井さんは旅もたくさんなさってますよね。
土井
けっこうひとりでもいくんです。
あと、わたし自身が雑誌に
「こんな記事を作りませんか」と持ちかけて、
出かけることもありますね。
糸井
企画の持ち込みまでされるんですか。
土井
はい、伝統野菜や地場野菜を
テーマにしたものとかですね。
交通費まで持ち込んでやることもあります。
糸井
はぁー。
それは、自分がやりたいから。
土井
そうです、自分がやりたいから。
わたしにはまだまだ知らないことが多くて、
それが絶対やりたいからです。
ぼくは昆虫採集が好きなので、
そういう感じですね。
行くたびに、同行するカメラマンに
昆虫とか、魚とか、野菜の写真を
たくさん撮ってもらってきましたよ。
糸井
そうやって、年をとればとるほど、
原始人のようになるわけですよね。
何の情報がなくても飛びついて食べて
「うまかったー!」みたいなのを原点にしてる。
土井
そうですね(笑)。
やっぱりそのあたりの感覚がないと、
料理も何もできないですから。
糸井
そうですよね。
土井
10年くらい前、わたしに
「カルボナーラを作って」という
リクエストがあったんです。
だけど当時のわたしは作ったこともないし、
はっきり言って作り方も知らない。
だけどそのときは
山の炭焼き小屋のような場所に、
卵があって、ミルクがあって、
乾物のパスタがあるのを想像するわけです。
そしてハイジのおじいちゃんみたいな人が
お腹がすいて立っていて、
そのとき「どう作るかな?」とか考えるわけです。
そうしたら見えてくるものがある。
糸井
「きっと、こう作ったにちがいない」って。
土井
そんな感じです。
そのとき浮かんでくる気分みたいなものを、
わたしはすごく大事にしたいんですよ。
糸井
それは、作家のような仕事ですね。
土井
いや、そんなすごいものじゃないんです。
だけど、いまは料理というと
レシピばっかりになってますけど、
料理の行為にはすべて
「どうしてこの人はこうしようと思ったの?」
が必ずありますから。
そこをイメージするのはおもしろいんですよ。
糸井
ああー。
土井
たとえばドーナツは、一般的には
きれいな輪っかのイメージでしょ?
けれども、たとえば子供の目でドーナツを見たら、
ちょっとだけ飛び出してる部分がカリカリしてる。
そしたら「このカリカリがいっぱいある
ドーナツを作ってみたい」とかね。
糸井
わかります、食べてみたい。
土井
ね? そうなんですよ。
そこから
「ふんわり部分よりカリカリが多いほうが
たのしいんじゃない?」とか
「生地をビヨーンと伸ばしたら、
おばけみたいなドーナツができるかも」
とか思うじゃないですか。
なんか、そんなことですよね。
糸井
土井さんは、作る側と食べる側の両方を
すごく行き来してるということですね。
食べたい、作りたい、食べたい、作りたい
‥‥っていう。
土井
そこはそうかもしれないですね。

(つづきます)

2017-01-04-WED