前回お届けした、『母のお料理レッスン』。
母とふたり、台所に立ちながら、
いろいろな気づきや、驚きがありました。
たとえば想像以上に、
母の料理の腕前が健在で達者だったこと。
その味が、昔と少しも変わらなかった喜び。
行く前に電話しておくと、
やっぱり部屋を片づけて待っているらしいこと。
ほんの数ヶ月前に、
あれほど、わたしがやきもきしていたのが不思議なくらいに、
体だけでなく心まで、
うんと元気になったような母です。
後ろから手順を説明する母の声を、
背中で受けながら、いつになく、
仲の良いおしゃべりを楽しむ、わたし達(笑)。
ちょっと前なら、どちらかといえば、
わたしが一方的に話していることに、
相づちを打ったり、ひと言ふた言返すくらいだったのが、
とてもアクティブな
会話のラリーになっていることにびっくりです。
よく、夫婦やカップルのあり方について、
『お互いじっと見つめ合っているより、
同じ方向を向いて、
同じ景色を見ているような関係がいい』、
といった、たとえがありますよね。
でもそれは、そういう気持ちの添わせ方というだけでなく、
実際、会話をするときにも、あえて膝を詰めたりせず、
じっくり向き合いすぎないというのは、
ある意味、肩の力が抜けた、
コミュニケーション方法のひとつなのかも、と思いました。
というわけで、そんなゆるい会話の中、
さらに、もうひとつのサプライズ!
おしゃべりの途中で、
わたしがお茶を淹れようとしていたときのことです。
うっかり、急須のふたをヘンな置き方をしたら、
「こういう置き方をしちゃダメよ」
と、ピシリ、母に叱られました。
そういえば、母は昔から、
ものの置き方、靴の脱ぎ方、服のたたみ方に、
とても厳しいひとでしたっけ。
でも、なんだかヘンな言い方ですが、
こんな、いかにも親らしい言葉は、
久しぶりに聞いたような気がします。
そして、わたしはといえば、
そんな母のお小言が、なんだか嬉しくて、嬉しくて…。
このひとは、わたしの『母親』であって、
わたしは、このひとの『子ども』なんだと、じーん。
とはいえ、その一方で、
「おにいちゃんが、病院からいただいた薬のことで、
10回も20回も同じことをクドクド言うから、
頭に来て、紙くず丸めて投げつけたら、
いつの間にか帰ってたわ」と子供じみたところも健在です。
ふだん、あんなに仲がいいのに、お珍しい~(笑)。
でも、そのくらい元気になったということですね。
そして、この『母の味を教わる』という初めての試み。
母が自分で料理をつくるモチベーションになれば、
という秘かな思いもありましたが、
実際、一緒に台所に立ってみると、
むしろ私のほうが、すっかり夢中で、
そういえばあのレシピも、このレシピも、
きちんと聞いておきたいという気持ちが、むくむく。
枝豆やコロコロに切ったきゅうり、青じそ、みょうがを
しょうゆだれに漬けた、わたしの好きだったあのメニューは、
どんなふうにつくるんだろう。
あじの甘露煮だって、きっとわたしがつくるのとは違うはず。
ひとつひとつ、きちんと聞き取って、
レシピに残しておかなくてはもったいない!
『親レシピ』は、家族だけが知る
大事な大事な財産だということに、
遅ればせながら気がついた次第です。
家庭にはオリーブオイルやナンプラー、
豆板醤やオイスターソースもない時代、
基本の『さしすせそ』を中心につくられてきた、
優しい家庭の味。
母からわたしへ、そしてわたしから娘たちへ、
引き継いでいきたい我が家の味。
途中、それぞれの時代に合わせて、
いろいろなアレンジが加えられていくのでしょうが、
それでも、きっと元レシピのDNAは
受け継がれていくはずですね。
次回のレッスンは、ぜひまた近いうちに。
できるだけ、せっせと通って、
いろいろな味を教えてもらおうと思ってます。
(次回に続きます)