第4回
現代人の身体感覚は?
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糸井 |
今の日本人の身体感覚は、昔に比べてどうなんでしょう。 |
甲野 |
ある部分は発達してるでしょう。
昔は黙読ができない人が一般的でしたから。 |
糸井 |
視覚の絡むことは強くなってるんじゃないですか。 |
野村 |
ただ、末端の感覚ばかりが必要とされることもあって、
大づかみに何かを把握する能力は
すごく衰えてきていますね。
料理でも、目分量とかさじ加減がわからない。 |
糸井 |
そうそう。
そういうのがカッコ悪いと思う美意識が
ちゃんと語られるべきですよ。
最高にいい料理が全部、計量スプーンと秤で計って、
時間も正しく何秒で、というふうにできてたんじゃ
つまらない。誰がやったって同じなんてねぇ。
マニュアルなんか、妙に民主的な
「キミでもできる」が大事にされてますけど。 |
甲野 |
「特別なことが誰でも習得可能」、
でもそんなことあるわけない(笑)。
価値観が混沌としてきた現代で
何が一番大事な価値基準かというと、
私は“美意識”だと思いますけどね。 |
糸井 |
できないことがある、と思ったほうが
カッコよさって出るんです。 |
野村 |
オーストラリアの先住民の人たちは、
言葉で一つひとつものを教わるというプロセスが
ないんですよ。
じーっと見ていて、いきなりやってみる。
車の運転でも横に乗ってて、何も聞きもせず、
ただ見ているだけ。
それで、次のときにはもう運転するとかね。
それだけ、観察力はすごい。 |
甲野 |
見ているだけで、いきなりできちゃうというのは、
身体に矩(かね)――物差しができてるんだと
思うんですね。
幕末に仏生寺弥助(ぶっしょうじやすけ)
という剣客がいて、
もともとは斎藤弥九郎(やくろう)の道場に
風呂焚きに雇われていた農民だったんですけど、
好きでよく稽古を見ていたんです。
若い連中がからかって、
「そんなに好きなら教えてやる」とやってみたら、
みんな負けてしまう。
こいつはすごいというので教え始めたら、
2年で免許皆伝ですよ。 |
野村 |
稽古を見ながら、動きを身体に覚えさせていった。
マニュアルと正反対のやり方です。 |
糸井 |
今は何でも単純化されて、
わかりやすいものばかり残ってますけど、
これまで意識してこなかった自分の身体感覚に
もっと気づくことが必要ですね。 |
甲野 |
その気づきがないから、
武道でもサーキット・トレーニングで
数をこなせばいいという発想が今でも主流です。 |
野村 |
身体というのは同じことを二度はできない。
機械じゃないですから。
また、そういう偶然性から新しい何かを得たりもする。
反復練習だけでは、身体が備えている
そういうファンタジーが生きてこないんじゃないかな。 |
甲野 |
私は自分が主宰する稽古会を始めて20年になりますが、
一度もスランプがないんですよ。
というのも、ある峠を越えると、
きのうまで是としていたことが、
「違う」という瞬間が何度もあって、
蛇が脱皮するように、それまでの殻が破れて次にいく。
その繰り返しで、1週間前、3日前より
今のほうがよくなってるというふうに
常に変わっていますから。
ラグビーのタックルや力士に倒されない術も、
10年前、いや2年前の私ならできなかった。 |
野村 |
筋肉に頼らないから、
年齢と共に技が落ちることもないんですね。 |
甲野 |
少なくとも数年先の私のほうが、
今よりずっといけるだろうと思います。 |
野村 |
究極の身体感覚は、「死」を感じることだと思うんですが、
いろいろな民族を見てると、自分が死ぬときが
ちゃんと見える社会って、わりにあるんですね。
今はピンピンしているのに、
数日中に自分は死ぬと言ったら、
自殺じゃなく、本当にバタッと死んじゃう。
逆に、今死んでいられないと思ったら、
ぜったいに死なないとか。
アメリカの先住民やなんかには
そういう話がたくさんあります。 |
甲野 |
いいですねえ。 |
野村 |
柳田國男も、昔の人は死期を自分で決めたと書いています。
伝統社会の中の身体知というんでしょうか。
そこには死も含まれていたんですね。
そういう感覚はやっぱり大事だと思いますよ。
この頃は、病気や死もあなたまかせ。
告知で「あと何ヵ月です」だとか、
自分の身体のことなのに、
関係ないところで死が決められ、
それに対してなすすべもない。 |
甲野 |
自分の人生の幕をスッと引けるのは一つの理想です。
さっきお話しした松林左馬助は、
一日に千回、刀を抜く稽古を欠かさなかった人で、
あるとき病気でなかなか起きられなかった。
それでも、「これは日課だから」と刀を千回抜き、
「わが事終わる」と言って、ニッコリ笑って死んだという。 |
糸井 |
しびれますね。 |
甲野 |
死に対する客観視ということでは、
深尾角馬(ふかおかくま)という剣術家の話もあります。
人を殺して殿様お預けになっていたんですが、
見張り人に自分が諸国を旅した話を聞かせている途中に
切腹の沙汰が来た。
そしたら、せっかく話が佳境に入っているのに、
やめるのも残念だからと話を続けるんです。
聞いているほうは、もう死ぬというときに
面白おかしく話をするもんだからビックリ。
話し終えたあとも冷静で、見事なやり方で切腹するんです。 |
野村 |
切腹は褒められたことじゃないにしても、
いつでも死ぬ覚悟があるのと同時に、
死をも含めた自分の身体の管理が
最後までできていたということですね。 |
糸井 |
僕は、自分の身体は内側にある
自然そのものだという気がして、
その自然の探検を飽きずにやれるんですね。
それが今のお話なんかだと、
自分の身体が見えない「森」じゃなくて、
きちんと整備された「庭園」のようになっている
印象を受けます。
“俺”という自然の隅々、
小石一つまでわかっているような。
僕にはそんな真似はできないけど、
自分の身体への興味は持ち続けたいですね。
(おわり) |