第2回 “価値”を決めるもの
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糸井 |
骨董の世界って、
「誰が価値を決めるんだ」ということと、
「そのルールはなんだ」というのを推理していく
ゲームみたいな気がするんだけど。 |
仲畑 |
試す、試されるってことは多い。 |
出久根 |
そういえば、贋物をつかまされた話、
お書きになってましたね。 |
仲畑 |
そうなんです。
飛行機の中で出会った骨董屋と話が盛り上がってね。
僕が李朝の白磁でいいのが欲しいと話すと、
「ありますよ、壷の逸品が」って言うの。
「どこに?」「韓国に」。
写真を見せてもらったら、
こーんな小さい写真に、
ちょろーんと白いのが写ってるだけ。
うーむと考えたけど、
そこはもう、俺も男だ、マドロスだぁ(笑)。
「買う、すぐに取ってこぉい!」って、
韓国まで行ってもらったの。
相手が売り渋ってるという報告を聞くと、
よけい欲しくなってね。 |
糸井 |
恋だね、恋。 |
出久根 |
駆け引きかもしれない。 |
糸井 |
それで思い出したけど、
前に仲畑さんが骨董屋さんと話してるを見てたら、
向こうは別の包みを1個持ってたよね。
案の定、仲畑さん、「それなあに?」って興味津々。
「お預かり物で」と言われると、
「見せて」ってすごい積極的なの。 |
仲畑 |
そりゃ、こっちは気になるわな。
なのに見せないから、「このヤロー」だよ。 |
出久根 |
それも手なんですね、商売の。 |
仲畑 |
で、韓国の壷だけど、料亭の座敷を用意して、
空港から直行させたのよ。
そして目の前で見たら……
わからないんだ、本物かどうか。
あまりに精緻できれいすぎる。
困ったなぁと思ったけど、買っちゃった以上、
盛り上がるしかないからね。
それで芸者さんたちにも「どうだ!」って自慢してさ。 |
糸井 |
ハッハッハ。 |
仲畑 |
お運びのおばあさんにまで見せて、
「ここ、シミがちょっと……」と言われると、
「いーとこ見るねぇ」って喜んで。
実は俺もそのシミ一つにすがってたのよ。
“景色”になってるから。
それを指摘してくれたもんだから、舞い上がっちゃって、
「まあ、飲んでって」なんてやってたの。 |
出久根 |
専門家にも見せたんでしょう? |
仲畑 |
後日、目利きの友人と骨董屋に見せたら、
これが「うーん」とうなるだけ。 |
出久根 |
ハッキリ言わないでしょ。古本屋もそう。
たとえばお客さんがいいモノだと思って店に持ち込んでも、
私たちが見たら違うってことがありますね。
そういうときは、
「いいものを見せていただきました。
大事にお持ちになったらいかがですか」
と言うんです。 |
糸井 |
お見合いで、「私にはもったいない」と言いながら、
断わるみたいなもんだ。 |
出久根 |
いいものなら、商売人は
「ぜひ譲ってください」
と言うはずです。 |
仲畑 |
それで僕も、
「ビジネスの目で見て、あんたなら買うか買わないか」
と迫ったら、
「買わない」。
それでこりゃダメだと。
そこまでが、すでに書いた話。 |
糸井 |
なに、後日談があるの? |
仲畑 |
2ヵ月前、別の骨董屋がうちに来たときに見せたら、
「あ、いいね。ぜんぜん問題ない」
って言うんだよ。 |
糸井 |
何なのよ、いったい。(笑) |
仲畑 |
水を張ったらジワーと、霞がかった地肌というか、
いい味になってね。
シミも育って大きくなって……。 |
糸井 |
顔がゆるんでるよ。 |
仲畑 |
結局、僕らと韓国の人の趣味はぜんぜん違うんですよ。
日本人は伝播したときのこすれとか
シミなんかを景色といって、
要するに“味”の部分を大事にするけど、
彼らは真っ白けが好きで、
特殊な溶剤で味を全部抜いちゃうんだね。
その味が、少しずつもどってきてたんです。 |
出久根 |
逆転につぐ逆転だ。
しかしそうすると、誰が最終鑑定するんですかね。 |
仲畑 |
いや、それは実に難しいです。
たとえば唐津なんか、見える人が少なくなってきてます。
室町後期から同じ土を使う同じ焼き方で
ずーっと途切れずにつくってるけど、
ちょっとしたことで発色が変わったりするし、
時代によっても少しずつ違って、むずかしい。 |
糸井 |
仲畑くんみたいにワガママな人でも、
「俺がいいと言ったらいいんだ!」
とは言わないわけ? |
仲畑 |
ううっ、痛いとこ突かはるねぇ。 |
出久根 |
やっぱり、自分が買ったものを
人にも認めてもらいたいというのは、
最終的にあるわけでしょ。 |
糸井 |
だけど、見せる相手がいないんだよね。(笑) |
仲畑 |
うちの若いデザイナーに、
「どうだ!」
って仏像を見せたら、
「うわぁ、気持ち悪い」
だって。
気持ち悪いって言われたら、サイテーじゃないですか(笑)。
ちゃんと見てくれる相手として、
「この人は」というのは、5人くらいかな。 |
出久根 |
目利きがね。その人の見る目を認めてて、
いいと言ってくれれば……。 |
仲畑 |
いいだろうと思う。
ただ、ひとしきりその5人に見せて、
なんだかんだ言い合ったら、もう終わりなんですよ、
響き合いという点では。
あとは、ときどき取り出して
「うーむ」と言ってるような。 |
糸井 |
そうすると、骨董というモノと
仲畑さんとの対話そのものに、
価値があると考えるといいのかな。 |
仲畑 |
まだ、そこまで至ってないけど。 |
出久根 |
さっきの「この人は」っていうことでいえば、
骨董道というのも、人を見る目が大事なんですね。
最終的には、その人を信頼できるかどうか。 |
仲畑 |
人なんですよ。それと、例の李朝の壷だって、
人がいじったり、植物の種なんか入れるのに使ったり、
人との付き合いの中で呼吸し、
変化することで味も出てくる。
そこもまた「人」だしね。 |
糸井 |
結局、骨董品の価値を決めるものって何なんだろう。
絶対的価値はありやなしや。
ないと決めちゃえば簡単だけど。 |
仲畑 |
ないけど……あるんだな。 |
糸井 |
うん。僕は仲畑さんの家で、何の情報もないのに
「離れがたい」というものに触っちゃったからね。 |
仲畑 |
そこに付加される情報価値には、
実にいっぱい裾野があってね。
どういう価値をつけるかは人によって違う。
真贋の「真」であっても、よくないという場合もあるし、
真贋の「贋」だけど「正」というのもあるし。 |
糸井 |
弱っちゃうな。 |
出久根 |
自分の中でいいと思えたら、贋物でもいいわけでしょう。 |
仲畑 |
いや、それは困るのよ。
知の作業としては、それをいいと言わないと、
美は語れないし、モノを見てることにならない。
だけどほら、難儀なことに、
骨董の情報価値というのが、片や、あるからさ。
それを持ち出すと贋物はペケにしないといけないんです。
僕の気持ちとしては
“贋物であっても「正」である派”なのに、
体がいうこときかないのよ、アタシ。(笑) |
糸井 |
多分、自己満足だけで、
ええものはええんじゃ、わからん者にはわからん
って言ってたら、つまんないんだろうね。 |
仲畑 |
骨董をやっている人の中には、
別に古物じゃなくたっていいじゃないか、
というのもあるんです。
今物でも、昔を越えたものがあるんだと……。
白洲正子さんが存命中、
滋賀県の堅田で見つけた佃煮屋の籠がいいっていうんで、
見せてもらったことがあるの。
たしかにいい。だけど、なんか弱い。
モノには責任ないんだけど、
こっちの気持ちが弱いんだね。 |
糸井 |
もし日本中がいいと言っても、
思いが込められている分量が、
今の時代の人数に限られている弱さはあるよね。 |
出久根 |
よさの重層がないというか。 |
仲畑 |
ああ、それはあるかもしれない。
それから、日本で唐物といって珍重してたやつが
中国でワァーと500個くらい出てきたら、
ガタッと価値が下がった。だから需要と供給もある。
大量生産みたいに一家に1個あったら困る、みたいなさ。
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