第2回
超人の超人たる理由 |
糸井 |
ここにグラスに入った水がありますけど、
これなんか、いかがです? |
前田 |
(グラスの水を嗅ぐ)持ってきた方、
タバコを吸われるんじゃないかな。 |
糸井 |
……もう、曲芸を見ているような。 |
前田 |
(一口飲んで)
まあ、どうってことないんじゃないですか(笑)。
東京の水じゃないですよ。 |
最相 |
じゃあ、ミネラルウォーターですか?
それとも浄水器……。 |
前田 |
いや、ミネラルウォーターでしょう。
浄水器を通すと、もう少し違ってきます。
わかりやすい言葉で言うと、
「キレがいい」という表現をする水じゃないんですかね。 |
糸井 |
この「ないんですかね」のあたりが……(笑)。
なんか、羨ましいなあ。
自分が知らなかったにおいの情報ネットワーク
みたいなところに生きている人が、
ここに、現実にいらっしゃる。 |
前田 |
私、いつも感度がいい
と思われてるかもしれませんけど、そうじゃないですよ。
水以外はまったく普通の嗅覚の鼻です。 |
最相 |
えっ、そうなんですか。 |
糸井 |
利き酒なんかもできそうですが。 |
前田 |
できるのかもしれませんが、
お酒を調べようという気持ちはありません。
イメージとして
赤ちょうちんにつながるムードが好きですから(笑)。
そういうふうに切り換えてしまってるんです。
嗅覚の扉が二つあるみたいに、
普通の扉で今の時間を過ごしていて、
水となると、いつもは閉まっている扉が開く。
そんな訓練をしたわけです。 |
糸井 |
おうちで飲む水については? |
前田 |
気にしないようにしていますが、
そこはやっぱり水ですから、今日の水の出来は……とか。 |
糸井 |
つい……。 |
前田 |
喫茶店でも、これはあそこの水だ、
というのはどこかにある。
守っているようで、攻めてますね、水に対しては。(笑) |
最相 |
嗅覚の扉を開けたり閉めたりするっていうのは、
よくわかります。
チャンネルを切り換えるという感じは、
音楽家の方にもあるようですよ。 |
糸井 |
そうでないと、常に音やにおいが気になって
仕方ないですもんね。
で、必要なときに集中する。 |
最相 |
そういう訓練を毎日されているから、
聴覚や嗅覚もますます研ぎ澄まされてくるんでしょうし、
研ぎ澄まされてくるということは、
それ以外の感覚をある程度、その場に応じて
シャットアウトできることだと思うんですよ。 |
糸井 |
視覚に向かっていた意識を聴覚に振り分けるというか、
足し算にしてそこに集中するみたいなことをなさってる。 |
最相 |
それが、ごく自然にできるんですね。
訓練の中で獲得した、
そういう切り換え能力の素晴らしさが、
私たち凡人にすれば、超人的に思えてしまいます。 |
糸井 |
先ほどの水を嗅いでいらっしゃるときの集中というのは、
その瞬間、後ろからグサリ刃物で刺されても……。 |
前田 |
わからないですね。(笑) |
糸井 |
僕ら、そういう部分を捨てちゃってる気がするな。
能力を総合的にみんな持とうよ、
という教育や思想があったのかどうかわかりませんけど、
とりあえず何でもできないといけないと。
その結果、持っていた能力が分散してしまった、
という面はかなりありますよね。 |
最相 |
だけど、感覚の問題というのは難しいです。
たとえば10人にインタビューして、
同じ音でもこう感じますというのが
個人的なものである可能性もあって、
それが絶対音感特有の感覚なのかどうかわからない。
それで100名の音楽家の方々に
アンケートをお送りしたんです。
統計をとる目的ではなく、みんな多様なんだけれど、
その中で共通するものは何か、その裏付けがほしくて。 |
糸井 |
共通するのは? |
最相 |
音を聞くと「ドレミ」で聞こえてくるとか、
歌の場合なら、音の名前が先行してしまうために
歌詞が耳に入らないという方も何人かいらっしゃいました。
あと、和音を聞くと、色が見えたり、色彩感がある
とおっしゃる方も多かったです。 |
前田 |
色ということでは、においも味も言葉で表現できない部分が
たくさんあるものですから、
私は色に置き換えて記憶するんです。
1年を色分けして、春なら新芽・双葉に陽が当たって
スーッと透き通るような緑感、
それが夏だと緑が濃くなり、透明感がなくなる。
秋になって、今度は褐色。でもどこかに緑感がある。
冬は、それが埋まる感じ。
水ですから、実際にそんな色があるわけじゃないですよ。
あくまで記憶するための自分なりのイメージです。 |
糸井 |
つまり、名前のつけようのないにおいの世界を、
地図と年表に置き換え直すというような感じですね。 |
前田 |
私の場合、
水の感覚の元になっている色というのが緑なんです。 |
糸井 |
ブルーじゃなくて? |
前田 |
ブルーより、「緑色感」ですね。
視覚をまじえれば、爽やかさ、透明感として
ブルーのイメージですが……。 |
糸井 |
そうして置き換えたものは独自の、
ご本人だけのものなんでしょう。
においの世界像があって、お前には役に立たないけど、
俺の中には細分化されていると。 |
前田 |
ええ。それで、私が感じたにおいのイメージを
人にわかるように伝えるときには、
自分の中のあの色ならばこの言葉というので、
透明感だとか清涼感、爽やかさといった表現に
置き換えるわけです。
だけど数値みたいにはっきりしたものではないので、
言葉や文字では説明しにくいですね。
「藻臭」−−藻のようなにおいがあったとしますね。
藻臭が濃いか薄いかで味も違います。
それだけでなく、キレがいい感じだとか、
やわらかいとか、いろいろあって、
土のにおい、石のにおいのイメージが
浮かぶ場合もあります。
でも特別な試験を除き、
平常ではそういう表現は必要ありませんから、
あくまで私の識別の中にあるイメージ。
自分だけのモノサシとして控えておきます。 |
糸井 |
水道局のレポートと、ご自分の日記とが、
別々に存在するんですね。
「藻臭」と簡単に片付けちゃう言葉の中に、
実はたくさんのことがある。 |
前田 |
そういうことです。
それと、これは一般の方はあまりご存じないようですけど、
水を正確に判定するためには、
実は容器がすごく大事でしてね。 |
糸井 |
ものを調べるには容器、ですか。 |
前田 |
容器の洗いがきちんとできているか。
他のにおいがついていないか−−。
調査を依頼された場合、
あらかじめ洗って自分が納得した容器を渡します。
そして、たとえば、湖の水を採るならその水で、
井戸水ならその井戸水で、「共洗い」をするわけです。 |
糸井 |
共洗い? |
前田 |
容器をその水ですすぐことです。
違う水で洗ってあると、もう尺度が違ってきますから。
それから、女性ですと化粧品類のにおい、
男性でもタバコのにおいなど着臭の恐れがありますから、
注意が必要です。
採水する前には必ず手も共洗いしてもらいます。
採水直前・試験直前には、
ぜったいに化粧石鹸で手を洗てはいけません。 |
最相 |
においが器に移ってしまう。 |
前田 |
試料はビンの口一杯に入れて
ビンの中に気泡がないことを確認してから、
栓をしていただく。
空気が入ると運んでいるうちに変わってきますから。
とにかく、採り方や容器の扱いが万全でないと
正確に調べられないんですよ。
ですから、みなさんが簡単に、「この水、調べてください」
とおっしゃっても、できない場合もあります。
調べる側としては、まず容器のにおいをゼロにすることが
大切ですから。
(つづく) |