BOOK
男子も女子も団子も花も。
「婦人公論・井戸端会議」を
読みませう。

絶対鈍感とダイタイ敏感
(シリーズ4回)

第1回 忘れられた感覚

第2回 超人の超人たる理由

第3回 基準って何?

第4回
自分なりの“モノサシ"で
糸井 ところで、蒸留水って味はどうなんですか。
前田 味はよくないですよ。
糸井 はっきり、よくない?
前田 ええ、はっきり。
気抜けという感じの水です。
ただ、蒸留水でご飯を炊くと、お米がよければよいほど、
そのものズバリのふわーっと炊けたときの
ご飯のいいにおいは出ます。
だけどにおいだけ。食べちゃいけません。(笑)
最相 普通の水で炊くよりダメですか。
前田 はい。私はそう感じられました。
最相 それは、なぜなんですか?
前田 成分がないからですね。
普通の水だと成分が含まれているでしょう。
糸井 カルシウム、マグネシウムとか。
最相 成分を含んでいるほうが、お米はおいしくなる……。
前田 水道水というのは、何に使ってもよろしいわけです。
最相 音楽でも、同じ曲を正確なコンピューターの
演奏で聴くより、ちょっと音痴でも、
人間が音を外しながら歌ったもののほうが
心に響くことはよくありますね。
声楽家の方に話をうかがうと、
最近の若い人は早期教育を受けて
絶対音感を身につけている人が非常に多いんだそうです。
そうすると、呼出音がなくても正確な音を出して歌える。
で、お年を召した方で、
比較的あとに音楽を始められたという人は、
早期教育を受けていないから絶対音感がない人が
多いんです。
呼出音がなくては正しい音が出せないんですけど、
いざ歌ってみると、情感があったり、
人に訴えかける力はそちらのほうがあるんですね。
だから、これが絶対であるということと、
相手が受け取ったときに、
いかに豊かなイメージをふくらませられるかということは、
別のことなんでしょうね。
糸井 おいしいとか情感があるというのは、
「快い」ということでしょう。
これ、生き物としての感覚なんですね。
 
ところで、いい水っていうのは、
どういうにおいのイメージですか?
前田 爽やかさでいうと、春の新芽に陽が通りぬけるような
透明感のあるイメージです。
緑が濃くなってくるとコクがあるという感じですし、
それぞれに特色がありますからね。
糸井 クセも好みのうち。
最相 NTTの基礎研究所で聴覚の研究をしている方が
おっしゃってたんですけど、人間って慣れるんですね。
同じ音をずーっと聴き続けていると、
その音を記憶するんじゃなく、
聴こえなくなるんだそうです。
実際には聴こえているんだけど、
意識がそこにいっていない。
慣れてしまうのも怖いことで、
音がこれだけやかましいのに、それに慣れると
騒音もだんだん加速していく。
感覚が鈍くなっていくんですね。
においにも慣れるということがありますでしょう。
前田 慣れますね。試験室では薬品類を使っていますから、
いろんなにおいがあるし、白衣で気づくこともあります。
このため臭気のない場所を探し、
ときには廊下へ出てやるとかしますけど、
それでもだんだんマヒしてきますよ。
それで、他のにおいは感じられなくても、
ときどき表に出て深呼吸したりします。
外気のにおいで感度の確認です。
 
日常飲む水は、自分が育った環境、ふるさとの水が
いちばんいいってよく言いますが、これも慣れでしょうね。
それ以上にいいところに行けば、こっちのほうがいいや
と思うんでしょうが。
糸井 オフクロの味をあらためて食べたら、
ちっともおいしくなかったというのに似てるな。(笑)
最相 関西と関東の水では違いますか。
前田 以前、大阪のテレビ局に呼ばれたことがあって、
そのとき、ホテルの洗面所で手を洗ったあと、
手ににおいがある。
よく考えてみたら、水道の水のにおいでした。
糸井 そんなにはっきりわかりますか。
前田 ええ。藻のにおいだったんですね。
自然界のにおいですから、異常ではないのですよ。
ただそのときは、東京の水との違いを感じました。
糸井 前田さんの記憶の中には、膨大なにおいのイメージが
インプットされてるんだろうなあ。
前田 たとえば利根川系の水には甘みのイメージがあるのですが、
同じ甘みでも、埼玉県の関宿までの水なら白砂糖、
関宿から江戸川となり、金町浄水場に来た水は黒砂糖
という感じなんですね。
つまり緑色感だけでなく、甘さだとか、潤い、艶だとか、
いろいろなイメージを組み合わせて
記憶に結びつけていますね。
糸井 そういうふうに、水にもいろいろあるのに、
俺、それ味わえてないなあ。
おいしい水があっても、汚い洗い方したグラスで
飲んでたりするし。(笑)
前田 私がお話したようなイメージでもって飲んでいくと、
たしかにそうだということが
一部分でもおわかりいただけるかもと思いますが、
そういうことを耳にしていないときには、 
飲んでもなんでもないんですね。
言葉で言ってしまうと、もうそちらの意識が入ってしまう。
糸井 バイアスがかかっちゃう、ということですね。
でも、「正しい」に近づきたいというこのビューキ。(笑)
 
最相さんの本には、絶対音感に対する「ダイタイ音感」
という言葉が出てきますね。
人によっては、絶対音感がなくても、自分の楽器に限り、
基準音を必要としないで音名がわかるという。
最相 たとえば管楽器なら、指が触れたときの感じとか、
口元から息がもれるときの感じで、
正しい音が吹けるという音感なんですね。
つまり体験的なものや職業的な勘で、正しい音がわかる。
結局、絶対音感がない人でも、
自分なりのモノサシはつくれるわけです。
 
一般の人でも、人間は曖昧なところを漂っているから、
どこか拠りどころになるものがほしい。
ただ、それを他人に対して主張すると
不協和音の原因になりますから、
コミュニケーションをうまくはかるために、
それは自分だけの基準として、他者には押しつけない。
前田さんはご自分の中のイメージを人に話すと、
相手がそれにとらわれてしまう、
本人が感じなければそれでいいとおっしゃいましたが、
ご自身の中に絶対的なものはあるけど、
それが人にとってどうかというのはまた別なんだ、
ということを言ってくださってる気がします。
糸井 絶対音感とか蒸留水的なモノサシって、
どこか工業社会的ですよね。
最相 それが有効とされる選別過程があったり、
仕事で必要だったりするとき、価値がつくんですね。
糸井 その価値から抜け出すには、
逆に、そうとう理性が必要かもしれない。
前田 私の場合は、飲み水ですので、
このにおいが正常か異常かと言う役目を、
自分なりに意識しています。
人さまが気づくその前に、役立つ感度でもって
水というものを守らなければいけない。
最相 絶対音感を持ってらっしゃる方に限らず、
音楽家の方はそうだと思うんですけど、
凡人が気づかない不協和音とか、
世の中の音に対して非常に敏感なんです。
鉱山のカナリアといいますか、
最初に分け入って、「ちょっと待て」、
「これ以上になると、一般の人たちは苦しくなるぞ」
ということを聴きわけてくださってるんじゃないか
と思いますね。
水も嗅ぎわけてくださってる。
そういう方たちの存在は貴重です。
前田 玉川浄水場にいたときに、
地下鉄工事現場で水が湧き出すという事故がありまして。
地下水なのか水道管の漏水かわからない。
水道の水は時間がたつと塩素の反応は出ませんからね。
また、地中に浸透してしまうと地下水の水質に
似てしまうので、化学分析でも難しいのです。
これがもし水道管の漏水だったら、
放置しておくと大変なことになります。
それで私がにおいを嗅ぐと、
甘いイメージのにおいがしたんです。
このにおいは朝霞浄水場の水ですと言ったんですけど、
当時、その区域に朝霞系統の水は配っていません。
だから、そんなことはないんじゃないかと言われてね。
しかし、30メートル先に朝霞の本管が入っている。
埋設したばかりだから漏れるはずはない
ということでしたが、掘り返して調べてみたら、
新しい管にヒビが入っていました。
糸井 探偵みたいだ。(笑)
最相 絶対音感のある方も、戦時中は
国のために駆り出されたことがあったそうです。
ピアニストの園田高弘さんはその聴覚能力から、
敵機がどの角度からどのくらいの高さで飛んでくるのかを
感知するため、東大の聴覚研究室で
実験を受けられたんです。
目隠しをして、いろいろなところで鳴らされる音に対し、
高度何メートル、方位はどこだというのを答えるわけです。
前線で人間レーダーのような形で
実用化しようとした手前で、終戦になったんですけど、
その精度は90パーセント以上の正当率だったそうです。
糸井 すごい……。
絶対音感は早期教育で身につくそうですが、嗅覚は?
前田 子どもの頃、とくに嗅覚が優れていた
ということはなかったですね。
ただ、年寄りの中で育っていて、
私自身も若年寄りと呼ばれていまして(笑)。
味にはうるさかったし、
お茶も好きでよく飲んでいましたから、
こじつけかもしれませんが、もしかしたら、
そういうことが影響していたかもしれません。
糸井 そうした能力のおかげで、
損してると感じたことはありませんか。
前田 特にないです。ただ、タバコやお酒は
においの検査の妨げになることもありますから、
やめました。
釣りも、エサのにおいが指につくので、
やらなくなりました。
ネギの入った納豆は、休みの朝だけ。
整髪料もつけません。
水の臭気・味を探り知るために余分と感じられるものは
どんどん排除してきました。
糸井 邪魔なものは省いていく−−。
ある意味で、それは人生観になりますね。
前田 そうしないとお役に立てない。体が官能機械ですから。
余分なものをとっていったら、健康でお金はかからないし、
それで職業もうまくいき、よかったと。(笑)

(おわり)

1999-02-27-SAT

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