33の悩み、33の答え。

読者から寄せられた
数百の悩みや疑問から「33」を選びました。
そして、それらの悩みや疑問に、
33人の「はたらく人」が答えてくれました。
6月9日(火)から
毎日ひとりずつ、答えをアップしていきます。

Q031

なやみ

偉大な先達に追いつけないんじゃないかと
不安です。

(26歳・デザイナー)

前回の東京オリンピックのときには、すばらしいデザイナーの先輩が活躍されました。2020年の東京オリンピックの自分は、はたらきかたの改革もあって、案を練ったり、何かを見たり、考えたりする時間に制限があります。このままでは、過去の偉大な先達に、追いつけないような気がして不安です。

こたえ

みずからの「輪郭」を描くことです。
「本来の自分」を取り戻すこと。
誰かに追いつこうとするのではなく。

こたえた人山口晃さん(画家)

山口
思ったのは「追いつく気なんだ」と。
──
なるほど。
山口
えらいな、と。
──
えらい。
山口
志が高い。

だって、
わたしたちの業界の「偉大な先達」と言えば、
雪舟、北斎、ブリューゲル、レンブラント……。
追いつく気になど、なかなか。
──
そのようなお名前が並びますと、たしかに。
山口
と、いうようなことを言っていても
お返事になりませんので、
わたくしが思ったことを申し上げたいと思います。
──
お願いいたします。
山口
偉大な先達が、
その時代その時代にやってきたこととは何か。

それは、せんじ詰めれば
「みずからの輪郭を描く」ことだと思うんです。
ようするに
「ああ、俺って、こんなんだったのかあ」
ということに思い至らされる作業。
作品をものするということは。
──
絵を描くとは「みずからの輪郭を描く」こと。
山口
そのために描くわけじゃないですけど、
作品の制作をつうじて
「最初の自分」が
どんどん「上書き」されていくのです。

そうすることで、
むしろ「本来の自分」に還っていくというような……。
──
自分が更新されて更新されて更新されて……
最後に「本来の自分」になる。

ぐるりと一周、みたいな感じでしょうか。
山口
とりあえず自分じゃないもので
間に合せの外郭をつくるしかないんでしょうね。
人間社会に居ると。

子どもなら子ども。大人なら大人。
専門ならその専門の中での社会性を装ってしまう。
制作というのは、そういうことと相性が悪い。
──
ははあ。
山口
作品というものは「その人にしか伝わらない」領域へ、
向かおう向かおうとするものなのです。

そして、その人すら置き去ってゆく。
その歩みを続けるうちに、
制作の最後にたどりつくのが
「ああ、俺って、こんなんだったのかあ」
という場所なのではないかと。
──
ご質問の方は、偉大な先達、
素敵なあこがれの人に
「追いつきたい」と思っているわけですよね。

いわば、みずからの外部にそびえ立つ
高い山の頂きを目指している。
山口
ええ、そのようですね。
──
でも、今のお話ですと、作品の制作をつうじて、
山口さんたちが
「最後にたどりついてしまう」のは、
高い山のてっぺんではなく
「本来の自分」であると……。
山口
自分の根っこみたいなものの形って、
割と早くに固まると思うのですけど、
その根に従った枝葉を繁らせるには実力も要るし、
運任せのところもあると思います。

それで、
はじめは仕方なく見よう見まねで取り繕う。
その場での社会性を装ってしまうということですね。
でも、そんなものでは制作できない。
──
はい。できない。
山口
自分の根っこから立ち昇るものなしに
作品になんか向き合えないです。

ですから、仮りそめのものを捨てて、
根に従った枝葉を繁らせていく。
自らの輪郭を取り戻す、とでもいうのでしょうかね。
最近は、そんな気がするんです。
以前は、少しでも、
いわゆる「美術史」の端っこに連なる仕事を……とも
思っていたんですけれど。
──
ええ。
山口
そのために、
偉大な先達を「踏まえる」こともありました。

しかしながら、踏まえれば踏まえるほど、
「この人たちは、いったい何をやってきたのだろう」
ということが気になるようになって。
──
はい。
山口
考えれば考えるほど
「ああ、なるほど。
やむにやまれず『こうなっちゃう』部分から
『目を逸らさない』ことを、
みなさん、やってきたのか」と。
──
つまり「こうなっちゃう」というのが
「本来の自分」なわけですね。

偉大な先達は、そこから、目を逸らさなかった。
山口
「自分らしく」とか
「なりたい自分になる」とかとは真逆ですね。

自分を表現しようなんてことではなく、
表出してくるもの。
その裂け目に
「飛び込んでいく」とでもいうんでしょうか。
ひとりぼっちになってしまいそうでも、恐れずに。
──
では、この方も「偉大な先達」ではなく
「本来の自分」を目ざすべきだ、と?
山口
双六の「あがり」みたいに
「本来の自分」とやらがあるとは思いませんけど。

内発する声に従い、
己を十全に使うってことなんでしょうね。
──
なるほど。
山口
偉大な先達というのは、
何よりまず「参考になる」じゃないですか。

「ああ、ここにたどりつこうと思ったら、
心の、身体の、このあたりを使うんだな」とか。
「おお、むむ。なるほど。
手首じゃないのか、肩……もっといえば腰か」
とか何とか。
そうやって「偉大な先達をなぞる」ことは、
あるところまでは
「本来の自分をめざす」歩みと重なってくるんです。
──
ええ。道行きとして。
山口
その地点までは、
偉大な先達をまねて勉強すればいい。

でも、あるところから「いや、まてよ」と。
──
はい。
山口
自分のやっていることは
「先達のこしらえた『型』にすぎない」と気づきます。

そうなってくると、そのまま進んだところで、
いつまでたっても「本来の自分」にはたどりつかない。
型に心が残る……というか。
型に心を残してしまう……というか。
偉大な先達の型を通じて「本来の自分」になるはずが、
いつのまにか
「先人の型そのもの」になってしまっている。
──
「本来の自分」に、ならずに。
山口
型というものは便利な代物で、
使いどころを心得ていればパパパっと、
インスタントに、
それなりのものができあがります。
──
はい。
山口
ただ、それでは「他人の型に使われている」
だけですよね。
やっぱり「自分自身の型」を見つけなければ。

そして「型」から逆算して
自分自身を使えるようになれば、
その「型」からも放たれてゆく。
そういうことだと思います。
えっと、こんな話でいいんでしたっけ?
──
いや、抽象的ですが、よくわかります。

ひとつ「本来の自分に近づいていく」とは、
どのような感覚なんでしょう。
身体に鎧われた硬い殻のようなものが、
一枚一枚、剥がれ落ちるような感じでしょうか。
山口
わたし、
まったく絵の描けなくなった時期がありまして。
──
えっ。
山口
大学3年生のころ。
描こうとしても、何にも浮かばない。

「あれ? 描けない。あれ? 描けない。なんだろう。
描こうと思っているのに、何にも浮かばない。
これは困った」という時期が。
──
そうなんですか。
山口
そのときは
「学校で描く絵」が描けなくなってしまったんです。

おうちで、自分のノートブックに
チョコチョコと楽しんでいた「お絵描き」は、
ウヒヒウヒヒで、やっていましたから。
──
ははあ。ウヒヒウヒヒで。
山口
公的な美術教育の場における
「こうすべきであって、ああすべきではない。
あんな歴史があるんで、こうでなければならない」
という絵が
「一切、描けなくなった」んです。

ようするに
「自分から発していないもの」が、まるきりダメに。
──
ああ、なるほど。
山口
そのような絵を描くということは、
すなわち、
自分という輪郭の外側にあるものになろうとする行為、
だからでしょう。
──
それは「本来の自分」とは、ほど遠いものなのですね。
山口
動機も、目ざすべきところも、
完全に自分の外側にあるような状態。

自分の根と断絶した
飛び地みたいな輪郭を描いてしまった。
もっと美術に素養があれば、
また、ちがったのかもしれません。
でも、そのときの自分のその部分は、
根からの「養分」が切れて、
いわば「立ち枯れてしまった」んです。
──
山口さんにも、そんな時期があったのですね。
山口
そのときに
「自分から発していないことがすべての元凶」
と思い知りました。

それ以降、
いつでも「自分からはじめる」ようにしています。
これを平たい言葉で言うならば
「描きたいものを描く」
「描かずにはいられないから描く」
「これをやったらどうなるか見てみたいから描く」
ということでしょうか。
──
シンプルですが、
ある意味で、勇気の要ることでもありそうです。
山口
怖かったですね、はじめのうちは。

美術という境界の内側で
ヌクヌクやっていればいいものを、
そこから逸脱してしまうという恐怖。
ひとりぼっちになってしまう恐怖。
誰からも見向きもされなくなる恐怖……。
──
わあ。
山口
ただし、その「恐怖の助け」、
それを羅針盤にすることなしには
「本来の自分」とやらへ到達することは、
むずかしいのではないでしょうか。
──
ご相談の方は「デザイナーさん」ということで、
ほとんどのお仕事が「受注」だと思うんです。

その点、誰かからの「注文」ということと
「描きたいものを描く」こととの関係について、
どのように考えたらいいでしょうか。
山口
レンブラントの「夜警」は、ご存じですよね。
──
はい、あのでっかい絵ですね。
アムステルダムで見ました。
山口
あの絵は「注文」で描いたものですよ。
──
えっ! あっ、そうなんですか。
山口
火縄銃組合の組合員のみなさんの肖像画なんです、あれ。
描かれている人たち全員から、
同じ額のお金をもらってるんです。レンブラントさん。
──
ひゃー、そういう絵だったんですか。
山口
はい。当時の肖像画の「常識」からすれば、
とんでもない代物です。

というのも、ふつう、
同額のお金を受け取っているのなら、
全員の顔を「同じくらいの大きさ」で描くものでしょう。
──
そうですよね、サービスとしては。通常は。
山口
でも、レンブラントさんは、ご存じのように、
あのようにして。
──
ああー……。
山口
画面中央で主人公のように
スポットライトの当たっている人もいれば、
端っこの暗がりで、
ほんのちっちゃくしか描かれていない人もいる。
──
それ、何か、クレームとかは……。
山口
言われたみたいです。
「おまえ、全員から同じだけの金をもらっといて、
俺の顔これかよ」とか。

でも……。
──
はい。
山口
ああして、歴史に残った。
──
アムステルダムの美術館では、
世界中から来た大勢の現代人が、
折り重なるようにして、食い入るようにして、
鑑賞していました。
山口
でも、完全に「逸脱」しているとはいえ、
お金をもらって描く「注文絵画」なんです、
あの絵は。

頼まれて描いた肖像画なのに
「歴史的な絵画」となったんです。
──
そういうことも、可能だということですね。
山口
だから、はじまりが「注文」であっても
「みずからの輪郭」は描きうるんだな、と。
──
おお。
山口
どちらへ進んだらいいかは、
ご自分の作品が教えてくれると思います。
──
目の前にある「自分の絵」が、導いてくれる。
山口
そう。自分のつくった作品は、
けっして自分の支配下にあるのではない。

それ自体が、描いた本人……つまり、
わたし自身に何かを語りかけて来る。
作品があろうとする姿を見せてくる。
社会的制約などを反故にさせようとそそのかしてくる。
──
作品とは、そのようなもの。
山口
ええ。わたしにも、
決して人に見せられない「恥ずかしい帳面」に、
「ああ~、これは俺だ。これこそが俺なんだ……」
みたいなのがですね、もう、ウヨウヨと……。
【2020年3月24日 外苑前←FaceTime→谷中】

このコンテンツは、
ほんとうは‥‥‥‥。

今回の展覧会のメインの展示となる
「33の悩み、33の答え。」
は、「答え」の「エッセンス」を抽出し、
会場(PARCO MUSEUM TOKYO)の
壁や床を埋め尽くすように
展示しようと思っていました。
(画像は、途中段階のデザインです)

照明もちょっと薄暗くして、
33の悩みと答えでいっぱいの森の中を
自由に歩きまわったり、
どっちだろうって
さまよったりしていただいたあと、
最後は、
明るい光に満ちた「森の外」へ出ていく、
そんな空間をつくろうと思ってました。

そして、このページでお読みいただいた
インタビュー全文を、
展覧会の公式図録に掲載しようか‥‥と。
PARCO MUSEUM TOKYOでの開催は
中止とはなりましたが、
展覧会の公式図録は、現在、製作中です。

書籍なので一般の書店にも流通しますが、
ほぼ日ストアでは、
特別なケースに入った「特別版」を
限定受注販売いたします。
8月上旬の出荷で、
ただいま、こちらのページ
ご予約を承っております。

和田ラヂヲ先生による描きおろし
「はたらく4コマ漫画」も収録してます!
どうぞ、おたのしみに。