寒い件。
1万4000人に抜かれて。

── 寒すぎて寝られないから
真夜中のパリを走っていただけの人が
なぜ「フルマラソンの大会」に
出場しなければならないのでしょうか。
TOBI ぼくと同じような時間帯に、
パリの街を走っている人がいたんです。

健康のためや美容のため、
そして何より、ランを愛しているため。
── 「寝るため」などでは、断じてなく。
TOBI ぼくは、いつも
寒さに耐え切れなくなる深夜0時ごろに
走りはじめるんですが、
セーヌ川のほとりを何往復もしていると
そういうランナーたちと
何度も、顔を合わせることになるんです。

── で、いつしか挨拶を交わすように?
TOBI そう、彼らにしてみたら
まさか寒さに耐え切れず走っているとは
思ってもみませんから、
「おお、同じ志のもとに
 寒さも厭わず夜を走り抜ける我が友よ」
と、気さくに話しかけてくるんです。
── 固い絆で結ばれた戦友よ、と。
TOBI そのなかに「ローラン」という、
フランスの北のほうの田舎町の出身の、
まだ24歳で
証券会社に入社したばかりの若者が
いたんです。
── ローラン二等兵、というわけですね。
TOBI そう、彼は都会生活の不安を
ジョギングによって解消しているのだと、
ぼくのことを
すっかりラン好き仲間だ、戦友だと思い込み、
目を輝かせながら語るのでした。

彼の、マラソンにたいする純粋な気持ち、
走っているときの笑顔を前にすると
「自分は
 寒くて寝られないから走ってるだけで
 本当は走るのなんて大嫌い」
だなんて口が裂けても言えませんでした。
── マラソン嫌いなんですか。

積極的に好きじゃないんだろうなあとは
思ってましたけど、嫌いなんだ。
TOBI 嫌いですよ、あんなもの。
走る以外にやることなくて退屈なんです。
── そりゃ、マラソンですから。
TOBI あれは‥‥やはり寒くて眠れなかった夜。

いつものように
ラン後にローラン二等兵と雑談していると
少し行ったところに
「ランナーの集うカフェ」があるらしい、
今から行ってみないか、と。

── ええ。
TOBI 一刻もはやく帰って眠りたかったので
渋っていたのですが
二等兵があまりに熱心に誘うものだから、
断りきれず、行くことにしました。

店に入ると、色とりどりのジャージを着た
夜光虫のようなランナーが大勢、
「ランを愛する者に
 悪人なし、嘘つきなし」と話しています。
── 「嘘つきなし」‥‥。
TOBI しかたがないので、ぼくも調子を合わせ
「うんうん、わかるわかる!
 マラソンって人生そのものだよねー」
と適当な嘘をついていると、
その場がどんどん盛り上がっていって。

しまいには、誰からともなく
「次のパリマラソンの
 インターネット受付がはじまったから
 ここにいる全員で
 今、いっしょにエントリーしようぜ!」
と提案が上がり、
ぼくを除くその場の全員が
「いいねー! うおおおおー!」と。
── 光る虫たちが一斉に羽根をバタつかせて。
TOBI しかも、
直前に行われるハーフマラソンに出場すると、
抽選なしで
フルマラソンに出場できるシステムなので、
とうぜんハーフにも
エントリーする、ということになったのです。
── 寝るために走っているだけの人にとっては
じつに、ありがた迷惑なシステム‥‥。
TOBI まわりの光る虫たちは
「よーしみんな、さっそく今から猛練習だ!」
「各自あと10キロ走り込んでから帰るべし!」
などと気勢を上げています。

となりのローラン二等兵
「TOBIにだけは、絶対に負けないぞ~」と。
── ええ。ライバル心むきだしで。
TOBI ぼくは、二等兵に勝とうが負けようが、
正直どっちでもよかったので‥‥。
── そもそも「寝るため」ですしね。
TOBI 次の日からは、
できるだけがんばって夜更かしをして
早朝に走るようにし、
身体を温めるという目的を果たしたら
そそくさと帰宅して
なるべく
彼らと会わないようにしていました。
── 本来は「マラソン嫌い」だし。
TOBI そうこうするうちに
ハーフマラソンの当日がやってきました。

すっかり夜更かしグセがついて
その朝も寝過ごしてしまったぼくは、
顔も洗わずに家を出て、
スタート地点の近くに停まるバスの中で
持ってきたバナナを2本、食べました。

── 遠足ですか。
TOBI そんな寝ボケ頭のぼくには、
「1万5000人が同じ方向に向かって走る」
ことの恐ろしさが
まだ、想像できていなかったんです。
── え、参加者って、そんなに?
TOBI 加えてマラソン大会のスタート地点では
「タイム順に選手が並んでいる」
という一般常識すら、知りませんでした。
── 実業団の招待選手とか大学駅伝の人とか、
速い人ほど、列の前のほうで
ジリジリとスタートを待っていますよね。
TOBI 今から思えば、
「趣味のランナー」は1万人目くらいに、
「寝るために走っている人」は
1万5000人目くらいに、
つまり、地下鉄で言えば3駅くらい後方の
最後尾に並ぶべきだったんです。
── ええ。
TOBI でも、そのあたりの事情を知らないぼくは
後ろのほうからスタートすれば
走る距離が長くなると思い、
並み居るランナーたちの大群をかきわけて
前へ前へと進み出て行きました。

最終的に、ぼくが陣取ったのは
前から50人目くらい、列でいうと3列目。
── そこは、完全に
「勝負しに来た人」の「戦場」ですね。
TOBI ぼくのまわりには、
ウケ狙いのコスプレランナーなど皆無。

髪の毛、すね毛、脇毛、まゆ毛、鼻毛、耳毛と、
全身の穴という穴、毛穴という毛穴から
シューシューと蒸気を噴き出している人ばかり。
── 二等兵など存在すら許されない場所だった、と。
TOBI 蒸しあがった箱入りシュウマイのような
トップ・アスリートたちに
びっしり密着されて身動きが取れず、
ほどけた靴ヒモを結ぶこともできません。

と、とつぜん「バーン!」と音がして、
同時に背中を強い力で押され
身体が前方へ、ふっ飛んでいきました。
── スタートしたんですね、レースが。
TOBI おそろしいスピードで猪突猛進する
トップ・アスリートたちに背中をどつかれ、
ぼくの身体は前へ進んでいきます。

背中をどつかれるたびに
身体が「ポ~ン!」と宙に浮くんですけど、
浮いた足が着地する前に
次なる「どつき」が入るんです。
── ええ。
TOBI 前後左右がギュウギュウ詰めだったため、
脇へ逃れることもできません。

自らの意志で「走っている」というより
「乱暴に運ばれている」状態。
── その哀れな姿が
クッキリ目に浮かぶのはなぜでしょうか。
TOBI そんな状態で運ばれ続けると
やがて
「5キロ地点給水所」の看板が目に入り、
ぼくは、猛烈な喉の渇きを覚えました。

なにしろ朝から水分を採っていなくて。
── 給水ポイントってコツがあるんですよね。
他の人とぶつからないように、とか。
TOBI ぼくは、あいかわらずどつかれながらも
給水所へにじり寄っていき、
水の入ったペットボトルに手を伸ばします。

しかし、ひとつのペットボトルに
将軍クラスのアスリートが4、5人が群がるため
つかんでも、力づくで奪われてしまいます。
── ああ、哀しき二等兵、哀しき給水弱者‥‥。
TOBI 他のランナーたちの水分補給が終わって
全員が猪突猛進モードに戻るころ、
ようやくペットボトルをゲットしましたが、
アスリートの荒波のなかでは
キャップを開けることさえ困難でした。

── 基本的な動作もままならないとは。
TOBI しかも、ようやく開けたフタを
コース外へ向かって放り投げたところ、
真横を走っていた
鬼軍曹のようなムッシューの横っ面に
直撃してしまい、
走りながら、えんえん説教されました。

ぼくは「すみません、すみません」と
平謝りしながら
口をタコのようにトンがらせて
中身をすすろうと身をかがめたところ、
これまでで最大級の激しい体当たりを
背中に喰らったのです。
── ‥‥はい。
TOBI 次の瞬間、右手のペットボトルは
ドラマティックな弧を描いて宙を舞い、
ミネラルウォーターを
太陽の光にキラキラと煌めかせながら
スローモーションで
アスファルトへ落ちていきました。
── せっかく手に入れたのに。
TOBI ひとくち‥‥せめてひとくちだけでも!

そう思ってグッと右腕を伸ばしたところ
「ピキーン!」という音がし、
左足の腿の裏側に
冷たいナイフを突き立てられたような、
鋭利な痛みが走ったのです。
── え、怪我?
TOBI スジを伸ばしたのか、肉離れなのか、
ともあれ体勢を立て直したときには
左のヒザが
1ミリも曲がらなくなっていました。

ぼくは左のヒザをピンと伸ばしたまま
道路の脇に腰かけて
靴のヒモをようやく結び直しました。
そして目の前を流れる人の群れを
その日、はじめて、眺めたのです。
── ええ。
TOBI ちいさな子どもが、走っていきます。
ブラジルの国旗を身体に巻いた人が、
おぼんにコップを載せたカフェの店員が、
ハイヒールを履いたヒゲおやじが、
乳母車に赤ん坊を乗せたシッターさんが‥‥
みんながみんな、同じゴールへ向かって、
目の前を駆け抜けて行くんです。

そのようすを眺めていたら
人間とは、それぞれ自分なりのやりかたで
ゴールを目指すんだ‥‥と
なぜか猛烈に感動し涙がにじんできました。
悟りを開いたような気分になったんです。
── マラソン、それすなわち人生‥‥と。
TOBI そして、ふたたび、
まったく曲がらない左足を引きずりながら
ノロノロと立ち上がり、
ぼくのゴールへ向けて、出発したのです。
── 今、頭のなかに
スクール・ウォーズのテーマ曲が流れ出したのは
ぼくだけではないでしょう。
TOBI 左足を引きずりながら
ようやく10キロ地点の給水所に到着すると
ペットボトルは
すでに1本も残っていませんでした。

そのかわり、
無料のオレンジが大量に置いてあったので
ぼくは、それを、むさぼり食いました。

── あ、そんなのもあるんだ。
それって、走りながらかじるんですか?
TOBI たぶん、そうなんでしょう。
全力疾走しながらオレンジを食い慣れた
トップ・アスリートたちは。

ま、ぼくは道ばたに腰を降ろして
ていねいに皮をむいて食べましたがね。
── もはや、どういう人なのかわかりません。
TOBI 15キロの地点にいたると
すでに給水所は跡形もなく撤収されており、
オレンジの皮しか残されていませんでした。

そのころになるとランナーもまばらになり、
誰にどつかれることもなくなったのですが、
予想だにしなかった敵が背後に現れました。
── 誰‥‥ですか?
TOBI 清掃車ですよ。

追いつかれると「タイムオーバー」となり、
棄権となってしまう、恐怖の車両。
── まるで、血も涙もない死刑執行人が
ゆっくりと近寄ってくるかのようですね。
TOBI ぼくは、死にものぐるいで、逃げました。
20キロ地点を越えるころには
右ヒザでも「ピキーン!」という音がし、
両ヒザともに
曲げることができない状態に陥りました。

そのため、最後の1キロ強は
まるで二等兵が行進しているようなフォームで
あたかも
清掃車を先導するかのようにして競技場へ入り
そのままの二等兵スタイルで
トラックを一周、
清掃車とほとんど同時にゴールしたんです。

完走した人の中では、本当に最後の最後でした。

── それって、つまり‥‥。
TOBI ええ。正真正銘の「ビリ」だったんです。
── ビリというのは、なれるものなんですね‥‥。
TOBI およそ1000人が途中で諦めたり、
清掃車に追いつかれて棄権したりしたので
ぼくは結局
約1万4000人に抜かれたことになります。

なにせ「後ろ向きで走っている人」にも、
「腰の曲がった老婆」にも、
追い抜かれていきましたからね、ははは‥‥。
── かつて、それほど多くの人に
追い抜かれていった人がいたでしょうか。
TOBI ゴールのあと、
ぼくは「完走おめでとう!」と書かれた
メダルを首にかけられるという
はずかしめを受け、
絶望的な挫折感を味わっていたのですが‥‥。
── ええ。
TOBI そのうちに、これは「架空のドン底」であって、
けっして
「人生のドン底」ではないと気がついたんです。

「きっと、神さまが
 この先の辛い人生を乗り越えてゆくために
 ドン底を体験させてくれたに、ちがいない!
 ローランに感謝だ、ニジンスキーに感謝だ!
 寒いのサイコー、ビバ極寒! イエー‥‥!」

── 完全にバッド・トリップしてしまったと。
TOBI そうなんです。
<つづきます>
2015-11-11-WED

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