── | そもそも「寒い」というお話でしたが。 |
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TOBI | ええ。 |
── | それがいつしか、 本気のマラソン大会に出るハメとなり、 両足が曲がらなくなったり 老婆はじめ1万4000人に抜かれるなど 「ひどい目」に遭ったという話に。 あ‥‥それでいいのか。 |
TOBI | ひと月後のフルマラソンは つつしんで、辞退させていただきました。 何というか、いろいろ無理で。 |
── | でしょうね。 |
TOBI | 2度とこんな目に遭わないためにも 「今度の冬は 絶対に暖炉を使わなければならない」 と強く自分に言い聞かせました。 |
── | 大元をたどれば、そこなんですよね。 暖炉が使えれば走る必要もなかった。 |
TOBI | 8月に入るや、アパルトマンの管理人に 「煙突掃除のシーズンに突入したら まっさきに 掃除屋を寄越してくれ」と頼みました。 |
── | まだ、ぜんぜん真夏じゃないですか。 |
TOBI | すると10月初旬、 煙突掃除のオッサンが訪ねてきて、 巨大な歯間ブラシのような形状の器具で 煙突の内部をゴシゴシこすり、 大量の煤を 部屋中にまき散らして帰って行きました。 その所要時間、なんと2分。 |
── | では、その2分のために、 前年は「ひどい目」に遭ってたんですね。 |
TOBI | でも、これで走らなくてもいいと思うと 心の底から安堵しました。 |
── | すっかり準備万端というわけですね。 「冬よ、どんと来い」と。 |
TOBI | うれしくて、うれしくて 冬の到来が待ちきれなくなったほどです。 |
── | あれほど冬に怯え、 実際、凍え死ぬところだった人が。 |
TOBI | ですから、その日のうちに 薪(たきぎ)を求めて街へ出ました。 で、とあるお店で売ってるのを見たら、 目玉が飛び出るほどのお値段で。 |
── | へぇ。いかほどですか? |
TOBI | 一束5本入りで、1万円くらい。 |
── | 高! |
TOBI | あとから聞いたら、 いまや一般家庭にある暖炉というのは 「ガス方式」で、 古式ゆかしく薪を燃やしてる人なんてのは めったにいないそうなんです。 |
── | そうか、ニジンスキーのアパルトマンには ガス管が通ってなかったからこそ セントラル・ヒーティングもなかった‥‥。 |
TOBI | そんなパリの最新暖炉事情を知らないぼくは 1万円もする薪を前に 「また走るのか」と不安に襲われました。 しかし、ともあれ、暖炉を使うつもりで 部屋の模様替えまで終えていたし しぶしぶ、高い薪を買って帰ったんです。 |
── | 5本で1万円のセレブ薪を。 |
TOBI | しかし、部屋に帰って、 さっそく火をつけようとしたんですけど なかなか着火しません。 というのも、煙突を通って ものすごい強風が、暖炉へ逆流していて。 |
── | その風圧で種火が消えてしまう、と。 |
TOBI | ぼくは、田舎の両親を安心させるために 暖炉の前で写真を撮って送ろうと おろしたての 純白のバスローブを着ていたんですが‥‥。 |
── | 何をしてるんですか、何を。 |
TOBI | あなたがたの息子は、パリの街で、 バスローブを着て、 暖炉の前でブランデーグラスを傾けた格好で 記念写真を撮るくらい 「立派な暮らし」をしているから安心してと 知らせたかったんです。 |
── | そのイメージですと 「パリ」というより「昭和」ではないかと。 |
TOBI | ともあれ、一向に薪に火が点かないので 駅やコインランドリーでもらってきた フリーペーパーを大量にくべたら あいかわらず、薪には着火しないのに 紙だけが一気に燃えあがり、 部屋中に灰が飛び散ってしまったんです。 |
── | せっかくの純白のバスローブが‥‥。 |
TOBI | 察しがいいですね。煤だらけの真っ黒け。 さらに、煙がモウモウと立ち上ったため、 窓を開け放つしかなくなりました。 |
── | ‥‥「寒い」じゃないですか、それじゃ。 |
TOBI | 暖炉に火を点けるためには 窓を開け放った状態で作業せざるを得ず、 ようやく3本のセレブ薪に チロチロと、 いまにも消えそうな火が点ったときには 身体の芯から冷え切っていました。 |
── | ‥‥‥‥‥。 |
TOBI | とにかく寒いんですよ。外みたいで。 |
── | 暖を取るために、窓を全開にしている。 前回の「寝るために走っている」のと、 似たような構造ですね。 ものすごい「本末転倒感」を感じます。 |
TOBI | ぼくは、何ごとにおいても 人一倍、 目的を見失ってしまうタイプなんです。 暖を取るために 暖炉に火をつけようとしていたぼくが いつのまにか 火をつけるために窓を全開にして‥‥。 |
── | 自分自身は凍えてるわけですよね。 バスローブ一枚の姿で。 |
TOBI | 結局、その日は分厚いコートに着替えて 「やったー。火がついた~!」 「やったー。3本とも燃え尽きた~!」 と大よろこびして終わりました。 室温は、最後まで氷点下のままでした。 |
── | ともあれ、薪がそんなに高値では その冬もまた、夜中に走ってたんですか? |
TOBI | いえ、もうマラソン大会に出場するのは こりごりだったので。 |
── | そこは‥‥ 出ないように気をつければいいだけでは? |
TOBI | いろいろ考えた結果、 パリには街路樹がたくさん植わっているので 薪にするための小枝を広い集めに出ることに。 |
── | トビーは街へ柴刈りに、というわけですね。 |
TOBI | そうです、まだ、昼間のあたたかいうちに パリの街へ薪拾いに出たんです。 街路樹の根元に落ちている小枝を拾い集め、 暖炉で燃やしてみてわかったことは‥‥。 |
── | ええ。 |
TOBI | 「街路樹の根元から拾ってくる小枝には ワンコのお小水が大量に付着している」 という恐怖の方程式でした。 |
── | 恐ろしや、知られざるパリの方程式! どうして、それがわかったんですか? |
TOBI | 小枝を燃やしてみたら 部屋中に「香り」が充満したんですよ。 ワンコのシッコをいぶした強い香りが、 全身に絡みつくような濃度で‥‥。 |
── | ううっ‥‥。 |
TOBI | 幻覚を伴うほどの強烈な目眩のあとに 意識が遠のいていくという体験をしました。 |
── | 山伏の修行に、そういう苦行ありますよね。 |
TOBI | パリで小枝を拾うときには 「ワンコがシッコをひっかける前」の、 「落ち立ての枝」を拾わなきゃいけないと しみじみわかりました。 |
── | ほかの誰もが参考にするのことのない、 パリ暮らしの豆知識。 |
TOBI | 風が吹くと小枝は落ちるのですが、 ワンコが散歩する時間帯に落ちた小枝には すぐマーキングされてしまうので、 「強い風が吹く真夜中の2時から4時」に 落ちた小枝が最適だとわかりました。 |
── | 深夜の活動に逆戻り、 しかも、もっとも底冷えのする時間帯‥‥。 再び繰り返しますが これ、何のためにやってるかと言えば 「寒さをしのぐため」ですよね? |
TOBI | そうなんですけど、 こっちは「落ち立ての枝を拾うこと」に すでに目的がすり替わっていますから。 |
── | 凍えるのをわかってても、行くと。 |
TOBI | そんな生活を繰り返すうちに 風の音を聞き分けられるようになりました。 「ああ、これくらいの音だと あれくらいの小枝が拾えるな」と。 |
── | 以前の「水漏れ事件」のときにも 上階で蛇口をひねる音を 聞き取れるようになったと言うし、 「ひどい目」とは 人間の機能をどんどん拡張していきますね。 |
TOBI | やがてぼくは、街路樹の小枝だけでなく いろんなものを試すようにになりました。 打ち捨てられたタンスを拾ってきては 解体して、燃やす。 捨てられているイスの座面の ベニヤ板を剥がしてきては、燃やす‥‥。 |
── | そうなるともう、 暖を取ることとは別の何かに見えます。 ある種の「アート行為」と言いますか。 |
TOBI | パリでは、クリスマスを過ぎ、 年が明けてお正月が終わるころになると 各家庭で使用されたモミの木が 夜のうちに路上に捨てられ、 翌日の早朝に回収車が集めて回るんです。 |
── | それはつまり 「前夜までクリスマスツリーだった モミの木」ですね。 |
TOBI | 燃焼テストの結果、 「モミの木それ自体」は燃えないことが 判明したのですが モミの木の根本につけられた 固定用の木板が、実によく燃えるんです。 |
── | ほかの誰もが参考にするのことのない、 パリ暮らしの豆知識その2‥‥。 |
TOBI | これを大量に集めれば、 今年の冬を、乗り切ることができるぞ! そう確信したぼくは、氷点下の部屋で凍えながら パリの市街図とにらめっこして 効率よく集められるルートを決めていったんです。 |
── | その、よく燃える木板を集めるルートを。 |
TOBI | そして夜も更け、 パトロールの警官にあやしまれないように あのいまわしきジョギング姿に着替えて 目星をつけていた場所へ向かったのですが‥‥ 行く場所行く場所、きれいに 目当ての「木の板」が外されていたんです。 |
── | え、木の板だけが‥‥? |
TOBI | 実家に帰省するため 大きなツリーを購入しない学生たちが 住むエリアではなく、 14区や15区、20区など 比較的ファミリー層の多く住むエリアを 重点的に回ったのですが、 固定用の木板は すべて、きれいサッパリ消えていました。 |
── | モミの木本体を残して‥‥ミステリー! |
TOBI | つまり「ライバル」がいたんですよ。 ぼくと同じように モミの木の本体には目もくれず、 モミの木の固定用の木板だけを狙って 「仕事」をしている人間が‥‥。 |
── | なんと! いったい何のために? |
TOBI | 膝から崩れ落ちるほどの衝撃でした。 モミの木の固定用に使われている あの地味で、 誰も気にも留めないような木板が 「よく燃える」ことに 「ぼく以外の誰か」が気付いて、 このパリの寒空の下で、蠢いている‥‥。 |
── | そして、TOBIさんがにらんだ場所を TOBIさんより一足はやく、先回りしている。 どれだけすばしこく、 どれだけずるがしこい人物なんでしょう‥‥。 |
TOBI | すべての木板を取られてしまっては 文字どおり死活問題、 凍え死んでしまいますから ぼくは、 地獄のような寒さの夜のパリの街を 西へ東へ走り回りました。 |
── | 幸い、真夜中に走りまわるのは 前年のマラソンで慣れっこですしね。 |
TOBI | 見た目もジョギング姿だしね。 ただ、昨冬とちがうのは、 片手に「釘抜き」を持っていたということ。 |
── | 不審人物感はグッとアップしてます。 |
TOBI | そうやって、しばらく走りまわっていると とあるアパルトマンの玄関が開き まさしく ツリーが捨てられる場面に遭遇したんです。 |
── | 獲物だ! |
TOBI | そう、ぼくはいったん建物の陰に身を潜め、 ようすをうかがうことにしました。 するとそこへ‥‥ついに現れたんです。 |
── | ‥‥誰が。 |
TOBI | 小柄な老夫婦が音もなく現れて、 モミの木から、あのよく燃える木の板だけを 猛スピードで外していったのです。 |
── | 敵はコンビでしたか! |
TOBI | 見るからに人の良さそうなおじいさんが クギを抜く係。 目にも留まらぬ早業で クイックイッとクギを抜くと、 優しい顔立ちで、品の良いおばあさんが 木板を袋に回収していきます。 |
── | お、おお。 |
TOBI | ふたりは、まったく無駄のない動きで 「獲物」をリュックにしまい、 ついでに 抜いたクギまで1本残らず回収すると 風のように去っていきました。 |
── | プロの仕事ですね。 |
TOBI | その間、老夫婦は「終始、無言」でした。 彼らの美しいお手並みを拝見していると、 ぼくは感嘆の溜息をもらし、 「並の修行では、あそこまで熟達した早業を 体得することなどできまい‥‥」と 言い知れぬ感動に打ちひしがれたのです。 |
── | 寒さも忘れて。 |
TOBI | そう、そして 「自分には、 あの芸域に達するのはとうてい無理だ。 金輪際、深夜の柴刈りはやめよう」 と、固く心に誓ったのです。 |
── | なるほど‥‥いい話です。 |
TOBI | こうしてぼくは、それ以来、 部屋の暖炉を使うことを、諦めたんです。 そして、その夜の出来事から 約一週間後、 あの‥‥あのおぞましき「水漏れ事件」に 遭遇することになるのです。 |
── | え、ここまでのお話は、 その冬のできごと、だったんですか!? |
TOBI | そう。 |
── | さすがはニジンスキー三部作の最終章、 ひどい目にも、ほどがある‥‥。 |
TOBI | ‥‥でしょう? |
<おわります> |
2015-11-12-THU |