寒い件。
寝るために。
── 今回の「ひどい目」は「寒い件」とのこと。
TOBI パリって街はね‥‥寒いんですよ‥‥。

── 知ってますよ。みなさん、そう言いますよね。
TOBI ‥‥‥‥‥‥‥‥(能面のような無表情)。
── いや、ええと、つまり、何でしょう、
「寒い」だけでしたら
あまりに「ふつうのこと」と言いますか。
TOBI あなたみたいな温暖湿潤気候ボケした人間こそ
あのパリの地獄の寒さを、
もうイヤ勘弁してというほど味わえばいいのに!
── は、はあ。
TOBI たしかに「寒さ」は万人に平等でしょう。

しかしながら、今からお聞かせするのは
パリの「寒さ」が嵩じて
そんな気ないのに
なぜかフルマラソンに出場するハメになり
そればかりか
夜な夜な、薪(たきぎ)を求めて
極寒のパリの街を徘徊することになった
哀れな日本人のお話‥‥。

── それ、ご自分のことですよね。
TOBI よく「パリ的おしゃれ生活!」を紹介した
本や雑誌の記事には
「パリのアパルトマンというのは
 そのほとんどが
 セントラル・ヒーティングを完備しており
 真冬でもパンツ一丁で過ごせるほど。
 そう、そこは‥‥暖房が愛を育む街、パリ」
などと書いてあるんです。
── ようするに「冬でも部屋では薄着」が
パリジャン・パリジェンヌの
おしゃれなライフスタイルである、と。
TOBI ぼくは、そのような記事を鵜呑みにして
あやうく凍え死にかけたんです。

「自分のアパルトマンの部屋の中」でね。
── それは、どのアパルトマンですか?
いくつか変わってますよね、住んでるとこ。
TOBI ニジンスキーのアパルトマンです。
── ニジンスキーのアパルトマンといえば、
「亡命ロシア人である
 レジーナ・ニジンスキーから借りた
 築400年のアパルトマンで、
 とつぜん壁の電話回線が火を噴き、
 中から盗聴器が出てきた」
という、いわくつきのアパルトマンですか。
TOBI はい。
── さらに言うなら
「深夜に上の階の汚水が溢れ出し、
 各種洗剤と油と生ゴミに浸かりながら
 7日間を過ごし、
 すっかりゾンビ化したところで
 8日目、ゾンビ役でステージに立つや
 割れんばかりの拍手喝采を浴びた」
という、あの伝説のアパルトマンですか。
TOBI そうです。ようするに今回は
「ニジンスキー三部作」の最終章なんです。

── それは‥‥にわかに期待が高まりました。
ただ「寒い件」だけではないということですね。
TOBI これまで、とくに話題に登らなかったので
強調しませんでしたが
ニジンスキーから借りたアパルトマンって、
信じられないほど寒かったんです。
── そんなにですか。
TOBI 窓という窓がすべて北向きだったために
まったく陽の光が差さず、
築400年を経た窓枠はところどころ歪み、
冷たい風が容赦なく侵入してくる。

雪が降ったら窓辺の床に
うっすらと白いものが積もりますし、
吐く息は、四六時中、まっ白‥‥。
── ほとんど「外」ですね、そこ。
TOBI 気づけば、まつ毛も凍ってる。
── 登山家ですか。
TOBI 寒さで勝手に涙が滲んでくるんですが
放っておくと、
凍りついてマブタが閉じられなくなり、
まるで、歌舞伎役者が
見得を切ったような顔になってしまう。
── リビングで。
TOBI ですから、部屋にいるときは
常時「まばたき」を強いられるんです。

お風呂あがりに
モタモタしていると命取りになります。
タオルで拭いきれず
身体に付着した水滴が凍り出すために
頭をブルブル振り、手足をバタつかせ‥‥。
── 濡れそぼった犬みたい。
TOBI 石造りの建築物は「保冷性」が抜群で、
壁も床も氷のように冷たく、
常に氷点下に保たれ、
生物の心と身体を、芯から冷やします。

あるときは、リビングの温度計の針が
「マイナス10度」の目盛りを‥‥。

── こわい!
TOBI レシピ本に
「バターを室温に戻してください」と
書いてあっても、
けっして室温に戻してはいけませんよ。

室温に戻したバターは鈍器と化します。
── 事件が迷宮入りになります。
TOBI それもこれも、ニジンスキーのアパルトマンが
セントラル・ヒーティングを
備えていなかったこと、これがすべての元凶。
── なるほど‥‥。
TOBI 暖房器具はといえば
ニジンスキーが置き去りにしていった、
昭和の苦学生の4畳半にあるような、
あの、フンワリした風を出す、温風機?
── そんなのでは「焼け石に水」ならぬ、
「チョモランマにそよ風」ですね。
TOBI 夏に入居したので
しばらく問題を先送りにしていたのですが
部屋の中に初霜が降りた日の朝、
「これは、さすがにヤバイ。死ぬ」と。

取付け工事の要る大型家電を買うときには
大家の承認が必要だったので
アメリカのニジンスキーにメールしました。
── すると?
TOBI 「え? 何? 寒い? なんで?
 そんなこと、一度も思ったことないわよ」

なにしろ、旧ソビエト連邦から
猛吹雪の中を
裸足で亡命してきたような人ですから。
── 風雪が凌げるだけマシだと思え、と。
TOBI 階下に誰か住んでいれば
暖かい空気も上がってきたんでしょうが、
下の部屋は
前年の冬におじいさんが孤独死して以来、
ずっと空き部屋でした。
── まさか、凍死‥‥!?
TOBI その可能性も捨てきれないと思っています。

そんなわけで、階下の暖気を頼るどころか、
「冷気」が這い上がってくるほど。
── 死んだおじいさんのね。
TOBI 寝るときがいちばん寒いので
毎晩毎晩、毛糸のニット帽を目深に被り、
厚手のマフラーを巻いて
手袋をはめ、
コートまで着込んでベッドに入るんですが、
ウトウトしはじめるや
耳元で
「寝たら死ぬぞ、寝たら死ぬぞ」と‥‥。
── 本能のレッド・アラートが鳴り響くベッド。
イヤです、そんなの。
TOBI 秋が終わるまで、どうにか凌いだんですが
こんなところで冬は越せない、
いっそ部屋を引き払い、
陽の当たる「路上」に引っ越そうかと
思いはじめた矢先‥‥。
── ええ。
TOBI 見つけたんですよ。
── 何を?
TOBI 「暖炉」を。
── はい?
TOBI いや、正確に言うなら、
それまでずっと目には入ってたんです。

そこに、それがある、ということはね。
── はあ。
TOBI そこに暖炉がある、ということ自体は
ビジュアル情報としては知ってたんですが、
「暖炉」と「暖房器具」が
イコールでつながらなかったんです。
── つまり「おフランスのおしゃれインテリア」
だとしか認識していなかったと?
TOBI まさか、暖炉で暖を取ればいいなどとは
思いもつかなかったんです。

真冬の一歩手前に至るまでね‥‥ははは。
── ああ、哀しき日本の一般庶民よ。
TOBI ともあれ、その日、あのアパルトマンに
一筋の光明が差しました。

ぼくは、すぐさま、階下の管理人室に
「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ!
 暖炉、暖炉、暖炉、暖炉!
 暖炉って、どうやって使うの?」
と、歓喜の表情で、駆け込んだのです。
── 目に浮かびます。
TOBI すると‥‥ぼくが全身からあふれさせている
「心の奥底からの震えるようなよろこび」
などどこ吹く風、
郵便ポストのホコリをパタパタ払いながら
管理人さんは
こちらに目を合わせようともせず
「その申し込みは、もう終わったから」と。

── 申し込み? ‥‥が、必要なんですか?
TOBI なんでも「暖炉」というものは、
煙突を掃除しないと
使ってはいけないそうなんです。法律で。

だから、本格的な冬が到来する前に
アパルトマン単位で
煙突掃除屋さんを雇うらしいんですけど、
掃除はすでにひと月前に終わっており、
「来年の冬まで待って」と。
── せっかく暖炉が暖房器具だと気づいたのに!
TOBI そんなわけで、その冬は、
暖炉を暖房として使うことができず‥‥。
── インテリアとして楽しんだ、と。
TOBI 仕方がないので
部屋の中央に毛足の長いじゅうたんを敷き、
四方をダンボールと
タンスなどの家具でグルリと取り囲んだ
狭い空間を構築したんです。
── 家の中で家をなくした人が、ここに。
TOBI 壁を二重構造にし、
そのすき間に新聞紙を丸めて詰め込んだ
渾身の「ダンボールハウス」は
予想以上にあたたかく、
これで死なずにすむと思えるほどでした。

しかし、真冬がピークを迎えるころには
本当に寒さで寝ていられなくなり、
そういうときは
真夜中、街を走って凌いでいたんです。
── つまり「寝るために走っていた」と。
TOBI そう、もうこれ以上ないというほど
寒い日の夜に限ってパリ中を走りまわり、
疲れ果てて家にたどりつき、
コートやマフラーやニット帽を着込んで
ダンボールハウスに潜り込む‥‥。

そんな生活をしばらく続けていたら
いつの間にか、夜勤の警察官が
怪しい目でぼくを見るようになって。

── 無理もないでしょう。
事情を知らなければ「ザ・不審者」です。
TOBI そこで、カモフラージュするために
マラソン用の
蛍光色のジャージの上下と、キャップと、
黒いモモヒキみたいなやつと、
ジョギング靴とを、買いそろえました
── つまり‥‥寝るために。
TOBI そうです。寝るために、です。

で、こまかい説明を抜きにしますと、
そうこうするうちに、
「フルマラソンの大会」に出ることに
なってしまったんです。
── そこが、今回の大きなミステリーです。
寝るために走っていた人が、なぜ‥‥。

TOBI そう、寝るために走っていただけなのに、
なぜかフルマラソンの大会に、
出場することになってしまったんですよ。
<つづきます>
2015-11-10-TUE

いままでのレ・ロマネスクさんの関連コンテンツはこちら

©hobo nikkan itoi shinbun