ひどい目☆その8 地平線を望む雄大な北海道の牧場で深紅に染まる夕陽を眺めながら生ぬるい牛のフンを全身に浴びた件。
第2回ベェ、ベェ、ベェ。
── 明日の飛行機で北海道の牧場に来てくれと
急に言われ、一睡もせず、腹を減らし、
親知らずを抜いて顔面を腫らしながら、
角刈りのヘアースタイルで
根室中標津空港行きの飛行機に飛び乗った、
若き日のTOBIさん。
TOBI いかにも。
── さすがに、無事に到着したんですよね?
オホーツク海の流氷に不時着とかはせず。
TOBI 大丈夫でした。

夕暮れの根室中標津空港に降り立ったら、
すぐにKさんが寄ってきました。
── 昨日の朝まで
まったく見ず知らずだった人ですよね。
TOBI 翌日から検査入院する予定のKさんは、
頬がふっくらツヤツヤして、
いかにも健康そうな顔をしていました。
── かたや、北海道を救うべくやってきた
痩せた青年は、
前の晩に一睡もせず、腹を減らし‥‥。
TOBI 親知らずを抜いて顔面を腫らしながら。
── 角刈りで。
TOBI どう見てもこっちのほうが病人なんです。
── ですよね。
TOBI Kさんは、ぼくを見つけるなり、
「あー、ほんとに来たんだ!
 来ないかと思ったよ!」
という信じられない一声を発しました。
── 昨日の今日だし、
あちらも半信半疑だったんでしょうか。
TOBI そうかもしれませんが、
さすがに「おいおい!」と思いました。

こっちはギリギリの健康状態で来てますから、
「いやあ、よく来てくれたね!」
「待ちわびたよ!」
みたいな、横断幕とは言わないまでも
歓迎ムード全開で迎えてくれるものとばかり
思い込んでいて、
ちょっと‥‥ドキドキしていたりしたので。
── それがまさかの「ほんとに来たんだ!」発言。
TOBI そして、人の顔をじぃーっと見つめて一言、
「なんか顔色悪いけど大丈夫?」と。
── 半分くらいは、Kさんが原因ですよね。
TOBI でも、しょっぱなから
使えないやつだと思われては大変なので
精一杯、取り繕ったのですが、
チラリとガラス窓に映った自分の顔は
全体的に
「雨に濡れた砂場の色」をしていました。
── 濃いグレー、ということですね。
人間の顔の色としては、非常に不適切です。
TOBI その後、Kさんの車で牧場へ向かいました。
そして、まずは母屋に寄り、
Kさん一家にごあいさつをしたんです。

家族構成は、
リタイアしたおじいさん、おばあさん、
Kさん、Kさんの奥さん、
そして高校生の長男、中学生の次男、
小学生の三男。
── おお、大草原の三兄弟。将来の牧場主?
TOBI いえ、彼らはそろって牛アレルギーのため、
牛舎に近寄ることすらできませんでした。
── そうか‥‥だから、わざわざ、
東京から乳しぼりの助っ人を呼んだんだ。
TOBI 三兄弟は、大都会からシティーボーイが
おしゃれなおみやげを持って来るとでも
思っていたのか、
ねずみ色した角刈り男が
手ぶらでノコノコやって来たと知るや、
あからさまな失意の表情を浮かべました。

そして、まったく会話を交わすことなく、
自分の部屋へと引っ込んでいったのです。
── 助っ人感まるでなし‥‥。
TOBI 次に、寝泊まりする場所に案内されました。

母屋から数キロ離れた牛舎のとなりに建つ、
ちいさなプレハブ小屋でした。
── 数キロ‥‥さすがは北海道。広い。
TOBI そこで、布団のあげおろしや
トイレの使い方などをザッと教わったあと、
時刻は夕方5時くらいでしたが、
もう、すぐに仕事がスタートしたのです。
── 「長旅で疲れたでしょう、
 今日はゆっくりしてね」とかじゃなく。
TOBI なにせKさんは明日から検査入院するし、
乳牛って365日、朝夕2回、
必ずお乳をしぼらなきゃならないんです。
── 張っちゃうんですよね、おっぱいが。
TOBI そう、しぼらないと乳腺炎などになって、
最悪の場合、死んでしまうんです。
── 歓迎パーティを開いているヒマなどない。
TOBI ええ、浮かれた帽子やハナメガネなどの
パーティグッズの代わりに、
青いツナギに青い帽子、白いゴム長靴という
作業服一式を手渡されました。

そしてKさんは
「いいか、俺が今から言うことを、
 すべて正確に覚えてくれ。明日までにだ」
と告げるのです。
── 一子相伝かのような物々しさ。
TOBI ときに、K牧場では「120頭」もの牛を
飼育していました。
乳牛なので、もちろん全員「雌牛」です。

ぼくたちが牛舎についたのは
夕方の乳しぼりタイムの直前だったので、
ほぼ全員が口からよだれを垂らしながら、
そして、お尻からウ◯チを垂らしながら、
デローンと寝そべっていました。
── あまたの乙女たちが、あられもない姿で。
TOBI まずは、彼女たち全員を、
搾乳室の手前の待合室みたいなところへ、
誘導しなくてはならない。

それが、ぼくに課された最初の任務でした。
── え、120頭の雌牛を、誘導する?
TOBI そう。と言っても、
無闇に追い立てたところでビクともしない。

そこで、Kさんが見本をみせてくれました。
── はい。
TOBI どうしたかというと‥‥
「チチチ‥‥トトトトトト、トトトトトト」
と言いながら
牛舎の中を走り回り出したんです。
── ええ。
TOBI すると、驚いたことに、
寝そべって、よだれやらウ◯チやらを
垂らしほうだい垂らしていた
120頭の牛たちが「グワワーッ!」と、
次々に起き上がってきたんです。

数トンもの体重の乙女たちが
波打つように立ち上がっていく光景を
目の当たりにし、
ぼくは、無意識に「うおお!」と叫び、
ただただ、感動していました。
── すごそう‥‥。
TOBI するとKさんが
「じゃ、今度はおまえやってみろ」と。

昨日まで葬式専門の花屋だった自分に
できるのだろうかと
半信半疑で「チチチチ」と言いながら
牛舎を走りまわったら‥‥。
── お、おお。
TOBI 次々と起き上がったのです、牛たちが!
── なんと、すごい!
素質あったんですかね、TOBIさん。
TOBI いえ、牛の頭がいいというか、
彼女らが、よくしつけられていたんです。

ただし、立ち上がらせただけじゃダメで、
ミッションをコンプリートするには
その先の待合室まで
牛たちを誘導していかなければならない。
── 牛の集団を、特定の場所へ向かわせる‥‥
もしかして、
ここでもまた「魔法のフレーズ」が?
TOBI そう、あったんです。

Kさんが
低い声で「ベェ、ベェ、ベェ」と言うと、
120頭もの牛たちが、待合室へ向かって、
ゾロゾロと歩きはじめたんです。
── へえ!
TOBI 「ベェ」です。

コツは、のどを鳴らすようにしながら、
思い切り低い声で、うなるように
「ベェ、ベェ、ベェ」と発音すること。
── ちなみに、その「チチチチ」とか
「ベェ、ベェ」とかって
K牧場独自のルールなんですかね?
TOBI いや、共通の合図じゃないでしょうか。

というのも、あのあたりには
フリーの酪農家という人たちがいて‥‥。
── フリーの? かっこいい!
TOBI そう、法事なんかで家を空けるときなど、
日当いくらで来てくれるんですが、
その人たちもベェベェ言ってましたから。
── そうなんだ‥‥ベェベェ。
TOBI ちがいます。そんなんじゃ牛は動かない。
もっとこう、「ベェ、ベェ、ベェェ‥‥」
── ヤギの浪曲師みたい。
TOBI Kさんは、ぼくのために
ベェ音を数パターン実演して見せたあと、
「じゃあ、待合室へ入れてみて」
とだけ言い残し、
向こうのほうへ行ってしまったんです。

ぼくは「チチチ」のときの成功体験から
ベェベェさえ言ってれば
簡単に待合室へ入ってってくれるものと
思い込んでいたのですが‥‥
今度は、
まったく、言うことを聞いてくれなくて。
── 甘かったんですかね、ベェが。
TOBI 牛というのは、とてもかしこい動物なので、
怖い人間に対しては
乙女のようなしおらしさを見せる反面、
新人や素人が来ると、
ものすごくナメた態度を取るらしいんです。
── つまり、ナメられてたんですか?
TOBI そう、牛舎をよくよく見たら、
まだ寝そべってる子さえ、いたくらいで。
── 立ってすらいない。
TOBI その子の至近距離で「チチチチ」と言っても、
教室のいちばん後ろの席に座っている
スケバンのような目つきで
一瞬、こちらをチラッと見るだけで、
フワァーとアクビして、また寝ちゃうんです。
── 完全にナメられてますね。
TOBI その子、ゲルちゃんて名前だったんですけど、
近くに寄ってチチチチ言おうが、
ベェベェ言おうが、まったく動いてくれない。

そしたら、ようすをうかがっていたKさんが
「そんなんじゃあ、ダメだ、ダメだ!」
と言いながらドスドスやってきて、
いきなり、
ゲルちゃんのお尻を蹴っとばしたんですよ。
── ひどい! 乙女のヒップを。
TOBI いいえ、Kさんによれば、
ゴム製の長靴で蹴っ飛ばしたくらいじゃあ、
牛にとっては蚊に刺された程度だと。

ゲルちゃんもゲルちゃんで、
「チッ」みたいな目つきでこっちをにらみ、
「はいはい、時間ね」
という感じで、ようやく動き出したんです。
── はあ。
TOBI とにかく「ナメられちゃダメ」ということは
よくわかったので、
ぼくは、ベェベェの音程を思いっきり下げ、
できるかぎり威嚇的に
自分は怖い人間であると装っていたのですが‥‥。
── ええ。
TOBI ゲルちゃんをリーダー格とする
6頭のヤンキー乳牛グループの構成員が、
何トンという巨体で
壁にドッシンドッシン体当たりをするわ、
柵を破壊して脱走しようとするわ、
おとなしい牛に馬乗りになろうとするわ。
── 牛が馬乗りとは、これいかに。
TOBI その、一部のヤンキー乳牛の破壊行為が
他の一般牛たちにも伝染して、
手のつけられない状態になってしまって。
── ヘタしたら生命に関わりますよね。
TOBI 一人一人がトン単位の体重のある園児が
120人も集まって
大暴れしている保育園のお庭のようすを
想像してみてください。
── まるで「荒れた牛舎」です。
TOBI そうでしょう?
まさしく「荒れた牛舎」そのものでした。

騒ぎを収める術も知らず、
しばらく呆然と立ち尽くしていると、
ゲルちゃんが調子に乗ったようすで
近寄ってきて、
いきなり「ドスン!」と
ぼくのお腹に頭突きを食らわしたんです。
── 朝から何も食べてない、空っぽのお腹に。
TOBI それが‥‥痛いのなんの、
人のお腹に「骨」などないと思いますが、
「グキ!」という音がしたほどです。

猛烈に腹が立ったぼくは
「べェェェェ!」と雄叫びを上げながら
目の前にあったゲルちゃんの尻を
平手で叩いたんです、ありったけの力で。
── はい。
TOBI そしたら‥‥次の瞬間、
目の前が、真っ暗闇に閉ざされたんです。

あたたかいゼリー状の半液体に、
顔面全体を
やさしく包まれるような感触とともにね。
<つづきます>
2016-07-26-TUE

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