── | 明日の飛行機で北海道の牧場に来てくれと 急に言われ、一睡もせず、腹を減らし、 親知らずを抜いて顔面を腫らしながら、 角刈りのヘアースタイルで 根室中標津空港行きの飛行機に飛び乗った、 若き日のTOBIさん。 |
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TOBI | いかにも。 |
── | さすがに、無事に到着したんですよね? オホーツク海の流氷に不時着とかはせず。 |
TOBI | 大丈夫でした。 夕暮れの根室中標津空港に降り立ったら、 すぐにKさんが寄ってきました。 |
── | 昨日の朝まで まったく見ず知らずだった人ですよね。 |
TOBI | 翌日から検査入院する予定のKさんは、 頬がふっくらツヤツヤして、 いかにも健康そうな顔をしていました。 |
── | かたや、北海道を救うべくやってきた 痩せた青年は、 前の晩に一睡もせず、腹を減らし‥‥。 |
TOBI | 親知らずを抜いて顔面を腫らしながら。 |
── | 角刈りで。 |
TOBI | どう見てもこっちのほうが病人なんです。 |
── | ですよね。 |
TOBI | Kさんは、ぼくを見つけるなり、 「あー、ほんとに来たんだ! 来ないかと思ったよ!」 という信じられない一声を発しました。 |
── | 昨日の今日だし、 あちらも半信半疑だったんでしょうか。 |
TOBI | そうかもしれませんが、 さすがに「おいおい!」と思いました。 こっちはギリギリの健康状態で来てますから、 「いやあ、よく来てくれたね!」 「待ちわびたよ!」 みたいな、横断幕とは言わないまでも 歓迎ムード全開で迎えてくれるものとばかり 思い込んでいて、 ちょっと‥‥ドキドキしていたりしたので。 |
── | それがまさかの「ほんとに来たんだ!」発言。 |
TOBI | そして、人の顔をじぃーっと見つめて一言、 「なんか顔色悪いけど大丈夫?」と。 |
── | 半分くらいは、Kさんが原因ですよね。 |
TOBI | でも、しょっぱなから 使えないやつだと思われては大変なので 精一杯、取り繕ったのですが、 チラリとガラス窓に映った自分の顔は 全体的に 「雨に濡れた砂場の色」をしていました。 |
── | 濃いグレー、ということですね。 人間の顔の色としては、非常に不適切です。 |
TOBI | その後、Kさんの車で牧場へ向かいました。 そして、まずは母屋に寄り、 Kさん一家にごあいさつをしたんです。 家族構成は、 リタイアしたおじいさん、おばあさん、 Kさん、Kさんの奥さん、 そして高校生の長男、中学生の次男、 小学生の三男。 |
── | おお、大草原の三兄弟。将来の牧場主? |
TOBI | いえ、彼らはそろって牛アレルギーのため、 牛舎に近寄ることすらできませんでした。 |
── | そうか‥‥だから、わざわざ、 東京から乳しぼりの助っ人を呼んだんだ。 |
TOBI | 三兄弟は、大都会からシティーボーイが おしゃれなおみやげを持って来るとでも 思っていたのか、 ねずみ色した角刈り男が 手ぶらでノコノコやって来たと知るや、 あからさまな失意の表情を浮かべました。 そして、まったく会話を交わすことなく、 自分の部屋へと引っ込んでいったのです。 |
── | 助っ人感まるでなし‥‥。 |
TOBI | 次に、寝泊まりする場所に案内されました。 母屋から数キロ離れた牛舎のとなりに建つ、 ちいさなプレハブ小屋でした。 |
── | 数キロ‥‥さすがは北海道。広い。 |
TOBI | そこで、布団のあげおろしや トイレの使い方などをザッと教わったあと、 時刻は夕方5時くらいでしたが、 もう、すぐに仕事がスタートしたのです。 |
── | 「長旅で疲れたでしょう、 今日はゆっくりしてね」とかじゃなく。 |
TOBI | なにせKさんは明日から検査入院するし、 乳牛って365日、朝夕2回、 必ずお乳をしぼらなきゃならないんです。 |
── | 張っちゃうんですよね、おっぱいが。 |
TOBI | そう、しぼらないと乳腺炎などになって、 最悪の場合、死んでしまうんです。 |
── | 歓迎パーティを開いているヒマなどない。 |
TOBI | ええ、浮かれた帽子やハナメガネなどの パーティグッズの代わりに、 青いツナギに青い帽子、白いゴム長靴という 作業服一式を手渡されました。 そしてKさんは 「いいか、俺が今から言うことを、 すべて正確に覚えてくれ。明日までにだ」 と告げるのです。 |
── | 一子相伝かのような物々しさ。 |
TOBI | ときに、K牧場では「120頭」もの牛を 飼育していました。 乳牛なので、もちろん全員「雌牛」です。 ぼくたちが牛舎についたのは 夕方の乳しぼりタイムの直前だったので、 ほぼ全員が口からよだれを垂らしながら、 そして、お尻からウ◯チを垂らしながら、 デローンと寝そべっていました。 |
── | あまたの乙女たちが、あられもない姿で。 |
TOBI | まずは、彼女たち全員を、 搾乳室の手前の待合室みたいなところへ、 誘導しなくてはならない。 それが、ぼくに課された最初の任務でした。 |
── | え、120頭の雌牛を、誘導する? |
TOBI | そう。と言っても、 無闇に追い立てたところでビクともしない。 そこで、Kさんが見本をみせてくれました。 |
── | はい。 |
TOBI | どうしたかというと‥‥ 「チチチ‥‥トトトトトト、トトトトトト」 と言いながら 牛舎の中を走り回り出したんです。 |
── | ええ。 |
TOBI | すると、驚いたことに、 寝そべって、よだれやらウ◯チやらを 垂らしほうだい垂らしていた 120頭の牛たちが「グワワーッ!」と、 次々に起き上がってきたんです。 数トンもの体重の乙女たちが 波打つように立ち上がっていく光景を 目の当たりにし、 ぼくは、無意識に「うおお!」と叫び、 ただただ、感動していました。 |
── | すごそう‥‥。 |
TOBI | するとKさんが 「じゃ、今度はおまえやってみろ」と。 昨日まで葬式専門の花屋だった自分に できるのだろうかと 半信半疑で「チチチチ」と言いながら 牛舎を走りまわったら‥‥。 |
── | お、おお。 |
TOBI | 次々と起き上がったのです、牛たちが! |
── | なんと、すごい! 素質あったんですかね、TOBIさん。 |
TOBI | いえ、牛の頭がいいというか、 彼女らが、よくしつけられていたんです。 ただし、立ち上がらせただけじゃダメで、 ミッションをコンプリートするには その先の待合室まで 牛たちを誘導していかなければならない。 |
── | 牛の集団を、特定の場所へ向かわせる‥‥ もしかして、 ここでもまた「魔法のフレーズ」が? |
TOBI | そう、あったんです。 Kさんが 低い声で「ベェ、ベェ、ベェ」と言うと、 120頭もの牛たちが、待合室へ向かって、 ゾロゾロと歩きはじめたんです。 |
── | へえ! |
TOBI | 「ベェ」です。 コツは、のどを鳴らすようにしながら、 思い切り低い声で、うなるように 「ベェ、ベェ、ベェ」と発音すること。 |
── | ちなみに、その「チチチチ」とか 「ベェ、ベェ」とかって K牧場独自のルールなんですかね? |
TOBI | いや、共通の合図じゃないでしょうか。 というのも、あのあたりには フリーの酪農家という人たちがいて‥‥。 |
── | フリーの? かっこいい! |
TOBI | そう、法事なんかで家を空けるときなど、 日当いくらで来てくれるんですが、 その人たちもベェベェ言ってましたから。 |
── | そうなんだ‥‥ベェベェ。 |
TOBI | ちがいます。そんなんじゃ牛は動かない。 もっとこう、「ベェ、ベェ、ベェェ‥‥」 |
── | ヤギの浪曲師みたい。 |
TOBI | Kさんは、ぼくのために ベェ音を数パターン実演して見せたあと、 「じゃあ、待合室へ入れてみて」 とだけ言い残し、 向こうのほうへ行ってしまったんです。 ぼくは「チチチ」のときの成功体験から ベェベェさえ言ってれば 簡単に待合室へ入ってってくれるものと 思い込んでいたのですが‥‥ 今度は、 まったく、言うことを聞いてくれなくて。 |
── | 甘かったんですかね、ベェが。 |
TOBI | 牛というのは、とてもかしこい動物なので、 怖い人間に対しては 乙女のようなしおらしさを見せる反面、 新人や素人が来ると、 ものすごくナメた態度を取るらしいんです。 |
── | つまり、ナメられてたんですか? |
TOBI | そう、牛舎をよくよく見たら、 まだ寝そべってる子さえ、いたくらいで。 |
── | 立ってすらいない。 |
TOBI | その子の至近距離で「チチチチ」と言っても、 教室のいちばん後ろの席に座っている スケバンのような目つきで 一瞬、こちらをチラッと見るだけで、 フワァーとアクビして、また寝ちゃうんです。 |
── | 完全にナメられてますね。 |
TOBI | その子、ゲルちゃんて名前だったんですけど、 近くに寄ってチチチチ言おうが、 ベェベェ言おうが、まったく動いてくれない。 そしたら、ようすをうかがっていたKさんが 「そんなんじゃあ、ダメだ、ダメだ!」 と言いながらドスドスやってきて、 いきなり、 ゲルちゃんのお尻を蹴っとばしたんですよ。 |
── | ひどい! 乙女のヒップを。 |
TOBI | いいえ、Kさんによれば、 ゴム製の長靴で蹴っ飛ばしたくらいじゃあ、 牛にとっては蚊に刺された程度だと。 ゲルちゃんもゲルちゃんで、 「チッ」みたいな目つきでこっちをにらみ、 「はいはい、時間ね」 という感じで、ようやく動き出したんです。 |
── | はあ。 |
TOBI | とにかく「ナメられちゃダメ」ということは よくわかったので、 ぼくは、ベェベェの音程を思いっきり下げ、 できるかぎり威嚇的に 自分は怖い人間であると装っていたのですが‥‥。 |
── | ええ。 |
TOBI | ゲルちゃんをリーダー格とする 6頭のヤンキー乳牛グループの構成員が、 何トンという巨体で 壁にドッシンドッシン体当たりをするわ、 柵を破壊して脱走しようとするわ、 おとなしい牛に馬乗りになろうとするわ。 |
── | 牛が馬乗りとは、これいかに。 |
TOBI | その、一部のヤンキー乳牛の破壊行為が 他の一般牛たちにも伝染して、 手のつけられない状態になってしまって。 |
── | ヘタしたら生命に関わりますよね。 |
TOBI | 一人一人がトン単位の体重のある園児が 120人も集まって 大暴れしている保育園のお庭のようすを 想像してみてください。 |
── | まるで「荒れた牛舎」です。 |
TOBI | そうでしょう? まさしく「荒れた牛舎」そのものでした。 騒ぎを収める術も知らず、 しばらく呆然と立ち尽くしていると、 ゲルちゃんが調子に乗ったようすで 近寄ってきて、 いきなり「ドスン!」と ぼくのお腹に頭突きを食らわしたんです。 |
── | 朝から何も食べてない、空っぽのお腹に。 |
TOBI | それが‥‥痛いのなんの、 人のお腹に「骨」などないと思いますが、 「グキ!」という音がしたほどです。 猛烈に腹が立ったぼくは 「べェェェェ!」と雄叫びを上げながら 目の前にあったゲルちゃんの尻を 平手で叩いたんです、ありったけの力で。 |
── | はい。 |
TOBI | そしたら‥‥次の瞬間、 目の前が、真っ暗闇に閉ざされたんです。 あたたかいゼリー状の半液体に、 顔面全体を やさしく包まれるような感触とともにね。 |
<つづきます> |
2016-07-26-TUE |