── | ゲルちゃんのお尻をひっぱたいた瞬間、 TOBIさんのお顔を包み込んだ 「あたたかいゼリー状の半液体」って‥‥。 |
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TOBI | お察しのとおりです。 |
── | そんな至近距離から、アレを、顔面に? |
TOBI | 直接噴射でした。 |
── | TOBIさん‥‥‥‥よくぞご無事で。 |
TOBI | ぜんぜん無事ではありません。 ショックからくるものだと思うのですが、 視覚とともに なぜか一時的に聴覚も失われており、 しばらくの間、 漆黒の闇のただ中をさまよい続けました。 |
── | 牛のウ◯チに‥‥とらわれのTOBI‥‥。 |
TOBI | とにかく、それまでの人生において まったく遭遇したことのない「何か」が ぼくの身に‥‥具体的には、 ぼくの顔面の中央に降り注いでいる‥‥。 |
── | そのことだけが、たしかだったと。 |
TOBI | ことが起きてから10秒ほどでしょうか、 徐々に視界が晴れてきて、 まわりの雑音も、聞こえはじめました。 そのあたりで、ようやく悟ったんです。 |
── | 何が起きたのか‥‥を。 |
TOBI | そう、 「ああ、俺は浴びたんだな‥‥アレを。 真正面から、モロに」‥‥とね。 |
── | おそるおそるうかがいますが、 TOBIさん、先ほどこうおっしゃいました。 「猛烈に腹が立ったぼくは 『べェェェェ!』と雄叫びを上げながら、 目の前にあったゲルちゃんのお尻を 平手で叩いたんです、ありったけの力で」 |
TOBI | ええ。 |
── | 非常に気がかりなのが、 「『べェェェェ!』と雄叫びを上げ」 の部分。 |
TOBI | はい。 |
── | ようするに、その「真実の瞬間」において、 TOBIさんのお口は、 「フルオープンの状態だった」と‥‥!? |
TOBI | 残念ながら‥‥‥‥答えは「ウィ」。 |
── | 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏‥‥。 |
TOBI | それどころか、興奮していますから、 両の目はカッと見開かれ、 鼻の穴だって、 まるでパチンコの入賞口のように‥‥。 |
── | ときに、興味本位でうかがいますけど、 何でしょう、 フレーバー的なテイストとしましては。 |
TOBI | ヨモギ餅かな。近いところで言うと。 |
── | あ、草食だから。 |
TOBI | そう、だから別に、 くさくて死にそうってわけでも、ない。 むしろ、青々しくてフレッシュ。 おそらく、全国のみなさんは、 ぼくが、人として二度と立ち直れないような 地獄の噴射を 浴びせかけられたとお思いでしょうが。 |
── | 思ってます。 |
TOBI | その感覚とは、ちょっと、ちがうんです。 つまり、牛から出てきたばかりだから、 ピュアというか、 少しも混じりけがないというか、 こう‥‥イキイキとしているんですよ。 |
── | そうか、一般的なウ◯チといいますと、 トップリとした量感があり、 ヒンヤリ冷たくて‥‥ 「物静かな哲学者」というイメージですが、 噴射直後は 「あたたかく、ピチピチしていて、 若々しさを封じ込めたような、半液体」 だというわけですね。 |
TOBI | そう。ともあれ視覚や聴覚のはたらきは、 戻ってきたものの、 しばらく、動くことができませんでした。 すると、他の牛たちも こりゃあおもしろそうだぞということで、 次から次へと、 棒立ちのぼくにひっかけはじめたんです。 |
── | フェスティバルですね、ある種の。 フンフェス。 |
TOBI | そう、120頭もの雌牛たちから かわりばんこに ウ◯チをひっかけられるという状況が どれほど続いたのか‥‥。 とつぜん、 怒り、悲しみ、笑い、痛み、かゆみ‥‥ など、 さまざまな感情や感覚が押し寄せ、 ぼくは、 それまで出したことのないような声で、 「ベェ! ベェ! ベェ!」 と、牛たちを追いかけ回したんです。 |
── | 泣いてから強くなるタイプですね。 |
TOBI | ゲルちゃん率いるヤンキー乳牛軍団にも、 ベェベェ詰め寄り、 結果として、120頭すべての牛を、 待合室に入れることに、成功したんです。 |
── | ギリギリまで追い詰められた人間とは、 ときに、 信じられない力を発揮するものです。 |
TOBI | ここで、ぼくはシャワーを浴びたいなと 強く思いました。 噴射直後は「フレッシュ」だったものも、 時間の経過とともに、 じわじわ凶暴性を発揮し出していたから。 |
── | ええ、話を聞いているだけの者としても、 一刻もはやく浴びてほしいです。 |
TOBI | しかしながら、Kさんは ウ◯チにまみれたぼくをチラリと見るや 「かけられたか」「気をつけろ」 とだけ言い、 次なるミッションを与えてきたんです。 |
── | そのまま続行‥‥。プロの世界は厳しい。 |
TOBI | そのミッションとは、乳をしぼったあと、 牛たちのエサを準備すること。 |
── | あ、お夕飯のご用意。 |
TOBI | そう、ぜんぶで5トンのね。 |
── | 単位は「トン」なのか‥‥。 |
TOBI | それも、巨大なトラクターを操りながら、 ものすごい量のエサを、 エサ場にまんべんなく噴霧するという、 まるっきり土木作業みたいな仕事でした。 |
── | 前の日まで葬式専門の花屋をしていた人が、 巨大なトラクターを操縦して、 5トンのエサを噴霧するなんて、できるの? |
TOBI | Kさんは、それまで「原動機付自転車」、 すなわち「原付」くらいしか 運転した経験のなかったぼくに向かって、 いきなり キャタピラ仕様の重機を操縦しろ、と。 |
── | そんな無茶な! |
TOBI | 教えかたも、ものすごいザックリしていて 「いいか、見てろよ。 これがアクセル、これがブレーキ、 曲がる、伸びる、縮む、 開く、閉まる、ひっくり返す。いいな?」 |
── | できたんですか、操縦。そんなので。 |
TOBI | できるわけないじゃないですか。 エンジンをかけたらエンストするわ、 前進するごとに 車体がガックンガックン上下に揺れるわ、 ワイパーはブンブン空回りするわ、 ウォッシャー液はピューッと飛び出すわ。 |
── | まるでコントですね。 |
TOBI | でも、助手席のKさんは イシモトくんから ぼくのことを酪農好きと聞いていたから、 そんなの簡単にできるだろう、と。 なので、まったく操縦できてないぼくに 心の底からガッカリしたようすで、 「もういい、俺がやる!」 と言って、ぼくを操縦席から追い出し、 「お前は搾乳場へ行け!」 「検査入院はあさってにする!」と。 |
── | でも、スッカリ忘れていましたけど、 TOBIさん、乳しぼりで 北海道を救おうと思って来てるから、 ある意味、ここからが本番ですね。 |
TOBI | そう、心身ともにボロボロでしたが、 ぼくは、 もういちど気力を奮い立たせました。 |
── | そうか、今となっては ウ◯チまみれの人って印象しかないけど、 直前までは 「前の晩に一睡もせず、腹を減らし、 親知らずを抜いて顔面を腫らしながら、 角刈りで 空港の長い廊下を全力疾走してきた 雨に濡れた砂場のような顔色の人」 だったわけですものね。 |
TOBI | あたりは、すっかり日が暮れていました。 空腹と顔面のしびれと角刈りとウ◯チが 渾然一体となり、 精魂ともに尽き果てそうだったのですが、 ギリギリのラインで踏みとどまり、 天井からブラ下がっている 無数の搾乳機を 次々とやって来る牛の乳首に‥‥。 |
── | ええ。 |
TOBI | ポコッとはめてはお乳をしぼり、 ポコッとはめてはお乳をしぼり‥‥。 施設の中をあちこち右往左往しながら 休む間もなく動き続けて、 2時間かけて、 120頭全員のお乳をしぼったのです。 |
── | つまり、ようやく仕事終了? |
TOBI | 本来ならば、ほとんど終了でしょうね。 しかし、このときは 5トンのエサを噴霧し終えたKさんが、 牛舎のほうから 「戻ってこい!」と叫んでいたんです。 |
── | ‥‥ええ。 |
TOBI | かなりエマージェンシーのようでした。 何ごとかと飛んで行くと、 ある牛が出産をしていたのですが‥‥ 生まれた仔牛に 野生のキツネが襲いかかっていて。 |
── | え! |
TOBI | そのこと自体は、めずらしいことではなく、 目を離した隙に、生まれたての仔牛が キツネに 食べられてしまうことがあるそうなんです。 このときは、お乳をしぼり終えた子が、 牛舎に戻ってすぐに、産気づいたみたいで。 |
── | いきもの相手というのは、本当にすごい。 次から次へと、何かが起こる‥‥。 |
TOBI | Kさんも、奥さんも、 新人のぼくのことばかり気にかけてたから、 仔牛に、目が行き届いていなかった。 |
── | ああ‥‥それで、キツネに。 |
TOBI | みんなで必死にキツネを追い払いましたが、 残念ながら、 仔牛は、すでに息絶えていました。 長い1日‥‥というか、寝てませんから 昨日の朝からの、 長い長い2日間の最後に、 死産という悲しい出来事に立ち会うなんて、 想像もしていませんでした。 |
── | そうですよね‥‥。 |
TOBI | ともあれ、そんな騒動にも収拾をつけ、 あたりを掃除し終えたら、 夜の9時くらいにになっていたんです。 |
── | こんどこそ、ようやく、作業終了。 |
TOBI | はい。そこで、ぼくは、Kさんから しぼりたての牛乳を飲ませてもらいました。 もう、何十時間ぶりかに 味のするものを口に入れたわけですが‥‥。 |
── | その間、ヨモギ餅的なフレーバーの何かは、 思いがけず、味わったものの。 |
TOBI | ええ、人間が口にしてもいいものとしては、 何十時間ぶりです。 疲れ果てていましたし、 搾乳、急な出産、それも死産に立ち会って、 いろんな感情がないまぜとなっていたから、 もう‥‥涙が出るほどおいしくてね。 |
── | 世界一の牛乳ですよ、それ。きっとね。 |
TOBI | なにより、ようやく、シャワーを浴びれる! そのことが、ぼくに生きる力を与えました。 髪の毛、眉毛、まつ毛などすべての毛と、 耳の穴、鼻の穴、毛穴などすべての穴を、 強力な洗剤とタワシでこすりたかった‥‥。 |
── | そうでしょう‥‥ね。 |
TOBI | プレハブ小屋に帰り、 脱衣所で汚れた作業着を脱ぎ捨てると、 身体中、アザだらけでした。 例のゲルちゃんはじめ 不良牛グループの体当たりによってね。 |
── | 満身創痍とは、まさにこのこと。 |
TOBI | そして、待ちに待った 熱いシャワーを全身に浴びようとした、 まさに、そのとき‥‥。 再びKさんが「はやく来てくれ!」と。 |
── | え? |
TOBI | 「牛舎に戻ってこい、仔牛が生まれる!」 |
── | は? |
TOBI | さっきの子、「双子」だったんですよ。 |
── | 何と! |
TOBI | しかも今回は 母牛の「腰」が抜けてしまったがために、 緊急帝王切開手術となりました。 手術と言ったって自分たちでやるので、 ぼくが暴れる足を押さえつけ、 Kさんが おなかを開いて、仔牛を取り出して‥‥。 でも、そうやって 今度は、無事に生まれてきたんですよ。 |
── | おお‥‥よかった! |
TOBI | すべてが終わったとき、 時刻はすでに深夜0時をまわっていました。 こうして、自分史上、 「もっとも長い一日」が終了したのです。 |
── | ちなみに‥‥その牧場には、いつまで? |
TOBI | Kさんは数日で病院から帰ってきたのですが 次なる助っ人が見つかるまでは はたらいてほしいといわれ、 結局、それから半年間、お世話になりました。 |
── | え、そんなに!? |
TOBI | 酪農家志望の若者が見つかるころには、 真っ黒に日焼けし、 角刈りもスッカリ伸びきって、 ぼくは、さながら 「まきばのカール・ルイス」となって、 東京のアパートへ帰っていったのです。 |
── | あ、そのアパートって‥‥もしかして? |
TOBI | そう、それから数カ月後のことでした。 奴が‥‥空き巣が住み着き出したのは。 |
<終わります> |
2016-07-27-WED |