金曜日の午後でも、会場内はもちろん混んでいましたが、
入場する前の行列はほぼありませんでした。
上野の森美術館の「ゴッホ展」、
会場内でも、前の列の後ろ側から見て回ったのですが、
鑑賞中も、家に帰ってからも、満足感があったなぁ。
ぼくはもちろん美術の専門家でもなんでもないので、
知ったようなことは言えないし、
知識や教養はなくても美術への敬意は持っていたいので
なんとなくの「じぶんなりの鑑賞法」を決めている。
それは、展覧会の絵画作品が、
「ふつうの、学校や会社の廊下などに飾られていたら、
どう見えるだろうか?」を想像してみるという方法だ。
美術館の壁面に立派な額縁付きで掛けてある絵が、
無名の場所、粗末な環境のなかで飾られていたら、
それでも、じぶんに訴えかけてくるだろうか。
もちろんそれはそれで、それなりに
バイヤスのかかった鑑賞になるのだろうとは思う。
でも、あらかじめ立派なものと決めつけて見るよりも、
「これはなんだか好きだなぁ」であるとか、
「なんなんだ、これは。すごいかも」というような
いちおう、じぶんがこころに感じたものを大事にできる。
今回の「ゴッホ展」も、そんなふうに見ながら回ったが、
さまざまな時期ごとに、拾いたい絵がたくさんあった。
しかし、やっぱり、と言うべきか、
晩年に近くなってからの作品は、ずいぶんよかった。
絵の前に立って、絵筆を動かしている作者の存在に、
じぶんの立っているいる位置が重なってくるような、
つまり「じぶんがゴッホ」のような気にさせられるのだ。
教科書に出ていたゴッホという画家は、
こんなにすごいものだったからゴッホだったのか!
と、シロウトなりにぞくぞく震えられるのだった。
ゴッホは、画家として生きた時代ごとに、
さまざまな画家たちに影響を受け、ゴッホになっている。
そういうことが感じられる展示(図録もすばらしい)が、
絵画の背景をさらに豊かにさせてくれる。
直観と知識の交差が、幾重にもたのしめる展覧会だった。
いや、ぼくのへぼ感想より、行ってみたらわかりますよ。
※2019年11月16日の「今日のダーリン」より。