音楽家の細野晴臣さんは、
’80年代の音楽のおおもとをつくってきました。
それなのに、なぜか、いつもスポットライトから
外れたところへ行ってしまうのです。
糸井重里は気づきました。
「細野さんを、俺たちは褒めたりていない!」
そこで、こうしちゃおれないと
しりあがり寿さん主催のイベント
「さるハゲロックフェスティバル’23」
のステージに
細野さんをお招きし、3人で’80年代を振り返りました。
この鼎談の動画バージョンは、後日
「ほぼ日の學校」
で公開いたします。
細野晴臣さんのプロフィール
しりあがり寿さんのプロフィール
しりあがり
僕ね、糸井さんと細野さんに、
共通して教わったことがあるんです。
それは、僕が中高生の頃に聴いた
フォークやロックが
訴えていたような
「メッセージ」がなくても、
ただ「楽しい」とか「キレイ」でいいんだ、
ということなんです。
糸井さんの「おいしい生活。」っていうコピーも、
正しい生活を主張するんじゃなくて、
一人一人の「気持ちよさ」に委ねるものですよね。
細野さんの音楽からも、
「主流に対してアンチじゃなきゃいけない」とか
「売れなきゃいけない」とかは関係なく、
ホントに楽しい、美しい音楽でいいんだ、と
教えてもらいました。
糸井
そうだね、細野さんも僕も、
「メッセージが必要」とは言わないね。
でも、自分が影響を受けたものや人には、
ジャンルに拘らずに関わりに行くところがあります。
細野さんはそうとう若い頃、
マンガ雑誌の『ガロ』の作家に、
レコードジャケットを「描いてください」って
直々に頼みに行ったそうで。
メディアに関係なく、
狭くて楽しい関係があったんですよね。
細野
頼みに行ったのは松本隆です。
まあ彼ら作家も、そういうことに対してオープンだった。
だから、「頼めばやってくれる」ということは
疑いもしなかったね。
糸井
広い東京を、すごく狭く使ってたよね(笑)。
細野
糸井さんと知り合ったのも、そういう狭さの中だったね。
なんか今は、広がりすぎてるんじゃないかな。
いろんなものがメッセージを持ちすぎたり。
しりあがり
その頃って、才能がある人や楽しい人が、
一箇所に固まってたんですか?
細野
ミュージシャンは港区に集まってた。
みんなお酒飲めなかったから、喫茶店にいたね。
稼ぎはなかったけど、不安がなかった。
なんとかなると思ってたんだよね。
糸井
出したレコードの印税では食えなかったでしょう?
細野
とんでもないですよ、ぜんぜんです。
ホント、何枚売れたかなんか知らないもん。
糸井
今って
「働いた分だけちゃんと報酬を得なきゃいけない」
ということが先に言われるでしょう。
でも当時は、そういうことよりも、
「どんな音楽をやりたいか」のほうが、
話したいテーマだったわけですよね。
しりあがり
たしかに、好きなことをしたり、
何をやるかがいちばん大切ですよね。
だけど今は何でもあるから、好きなことをやっても
「誰かが先にやってるんじゃないか」と
不安になっちゃう気もします。
糸井
当時もそう言ってましたよ。
細野
ああ、そうね(笑)。
糸井
そんななかでまさしくYMOは、
さっき細野さんが言ってた
「苦しまぎれ」で出たアイデアだったんです。
「ロックやバンドという枠の中のことを
一通りやられちゃったんだとしたら、
人間じゃなくて
機械にやらせてみたらどう感じるんだろう」
みたいな取り組みは、
めちゃくちゃおもしろかったわけだよね。
しりあがり
そこらへん、もうちょっと詳しく聞きたいです。
細野
僕はアメリカで作られた
"Switched on Bach"という、
初めてシンセサイザーとコンピューターを使った
バッハの音楽を聴いたんだよ。
そんなにおもしろいとは感じなかったんだけど、
ヒットしてたから一応買ってみた。
そのあと、冨田勲さんが出した、
全部コンピューターでやってるという
ドビュッシーの『月の光』のアルバムを聴いて、
「何これ? この表現力はすごい」と思って。
そこから興味を持って、
マニピュレーターの松武秀樹さんに
連絡をとったんです。
でも、松武さんと曲を作る前に、
横尾忠則さんとインドに行って、
『COCHIN MOON』っていう
アルバムを作らされた(笑)。
糸井
横尾さんの手中に、真っ逆さまにはまったね(笑)。
細野
同時期に、坂本(龍一)くんも
そういう音楽をやってた。
僕も、誰も買わないようなコンピューターを買って
自分で練習して。
これがおもしろくておもしろくて、
結局20年くらい続けたよね。
だから、少なくとも最初の2、3年くらいは、
おもちゃで楽しんでたみたいな時期だった。楽しかった。
糸井
その、コンピューターを使った
ピコピコ音の音楽が登場したのが、
「ゲーム」が出てきた時代と重なるわけです。
で、ゲーム音楽が「この音、いいじゃん」と思って、
オマージュみたいなことをやり出したんですよね。
細野
そうそうそう、ゲームのほうが先にあったんですよ。
しりあがり
まだテレビゲームになる前の、
ゲームセンターにあったゲームにも
音楽がついてましたもんね。
細野
変化が目まぐるしい時代だった。
糸井
でも、そのころにも、
音楽は行き詰まってると思われていたんですよね。
例えばロックだったら、
「ウッドストック・フェスティバル」に集まるような、
いわゆるロックらしい音楽以外は
「ロックじゃない」とされていた。
一方で、歌謡曲はなんだか
軽視されていて。
その中で、細野さんたちは、
平気でいろんな音楽に寄せていっていた。
要するに「プロデュース」の仕方っていうのが、
作詞や作曲の他に、
すごく重要な概念になったんですよね。
細野
そうそうそう。
糸井
つまり、細野さんたちがやっていたことは
「趣味」なんですよ。
音楽が好きで、趣味でやっていて、
それに対する見返りで
食べてたところがあるよね(笑)。
しりあがり
マーケティングじゃないんですね。
細野
ホント、マーケティングとは全然無関係ですね。
糸井
今の人から見ると、そんな細野さんたちのやり方は
「大成功物語」みたいに見えると思う。
でも細野さんは、
「成功するかしないか」で
やっていたわけではないんです。
「オレのほうが新しい音楽を知ってるよ」
みたいなことは、
本来は友達同士の関係で言い合うことです。
そんなかんじで好きでやってる「趣味」だから、
知識の分量も必然的に多いんですよ。
細野
多いよー。
しりあがり
多いですか(笑)。
細野
多い、多い。
(明日につづきます)
2023-05-10-WED
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