糸井 |
映画の中でストーブを集める
シーンがありました。
あのリアリティが面白かったなあ。
具体的に暖かいものがほしい
わけですもんね。
あれは本当の話なんですよね。 |
李 |
本当の話なんです。
なかなか作り物として思いつく
ネタではないです、あれは。 |
糸井 |
本当の話を聞いて
それを映画に入れていくっていうのは、
やっぱり面白いですよね。 |
李 |
そうですね。だから、本当の話も、
みんなが「そうだよね」って納得する
本当の話よりは、
「ウソだ」って言う本当の話が
混じるほうが面白いですよね。
そのほうがこっちもそこが拠り所になって、
こんなウソみたいな話が本当なんだから、
違うウソを作れちゃうんですよね。 |
糸井 |
そうか、ああ。
脚本書いてるときってやっぱり、
どう言ったらいいだろう、
「豊かさ」は書けますよね。
人間ってもっと幅のあるものですよね。 |
李 |
そうですね。映画のスケール感って
そういうことだと思うんです。
お金かけてドンパチやるのも
スケール感ですけど、
もっと人の感情の触れ幅とかを
出していきたいんです。 |
糸井 |
いや、出てましたよ。
「面白い、つまんない」っていう言い方で
何でも人は判断するんですけど、
作ってる人こそがそれを判断してるわけで、
どうしてこれを面白いと思って
出しちゃったんだろうというものもあれば、
これはわかってて面白いというところまで
鍛え上げていって出したんだろうなと
思うものもありますよね。
ちょっとした匙加減で
まったく変わっちゃう。
その、自分の面白いって言えるときの
基準の持ち方みたいなものはありますか。 |
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李 |
それは‥‥、本当に好き嫌いしか
ないですよね。 |
糸井 |
好き嫌い。 |
李 |
自分が見たい映画を
作ってるわけですからね。 |
糸井 |
ほう。あ、てことは、
観客としては自分ですね。 |
李 |
そうですね。 |
糸井 |
同じ題材で同じキャスティングで
同じロケ地でも、
いくらでもつまんなくなったと思うんです。
そういう可能性はあったと思うんですよ。
でも、面白く作れたっていうのは
運だけじゃないわけで、
絶対に「それじゃダメなんだよ、
これがいいんだよ」っていう
ものすごい数のジャッジを
されたんだと思うんです。
同じ監督でも、面白いの作ったり
つまんないの作ったり
平気でしちゃいますからね。 |
李 |
それ恐いことですよね(笑)。 |
糸井 |
それって何なんだろう、って
ものすごく興味があるんですよ。
『フラガール』が本当に
面白かったっていうのは、
監督が客席にいたんだ、
って言われるとものすごい納得します。
自分が客席に座ってるってイメージって、
説明しにくいけどわかりやすいですよね。 |
李 |
客席寄りと自分寄りの振れ幅があるんです。
シーンによってもありますよね。
ここは客にとって必要なシーンだから
こうするっていうとこと、
ここは自分がこうしたいからこうするとこ。
で、それが映画トータルになったときに、
「ああ、今回は7・3だったな」とか
「8・2だったな」とか。
自分の自我と客観性とのバランス。 |
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糸井 |
それはやっぱりしょっちゅう
狂う可能性のあるものなんだね。 |
李 |
しょっちゅう狂うと思いますよ。 |
糸井 |
そうなんだね、きっと。だから、
同じ人がそこでバランス崩すんだね。 |
李 |
それを一定に保つことって
難しいと思うんですよ。
精神のバランスと同じで、
常に同じ振れ幅で行ってると、
それはそれで多分面白くないし。 |
糸井 |
でしょうね。ちょっとコブみたいに
余計なものが出てたりするのが
面白いんでしょうね。 |
李 |
見ようによっちゃ、
「ああ、やりたい気持ちはわかるけど、
そうしなきゃいいのに」
とかってあるじゃないですか。
でもやっちゃうところが
面白いと思えるかどうかとか。 |
糸井 |
やっぱり生き物の面白さですね、
映画っていう。
ラッキーも相当やっぱり入ってる?
もう要するに、人じゃできないことって
いうのをあてにしないと
作れないですもんね。 |
李 |
そうですね。ここぐらいまで行くと
ラッキーがないと無理ですね。 |
糸井 |
ラッキーを呼び込むために
何か意識しますか。 |
李 |
パチンコ、麻雀、競馬を
一切しないとか(笑)?
いや、もともとしないんですけど。
全部が全部、
僕がジャッジすることなんですけど、
自分でコントロールしようとは
あまり思わないですね。
キューブリックみたいに、
全部自分の計算の中でっていうふうには
していないんです。
どこか遊びの部分、
はじける、揺らぐ部分を
作っておくというか、
たるみを持たせておくという。 |
糸井 |
その現場を楽しみにする、
みたいなことがあるんですかね。
絵コンテ、バチバチに描きますか? |
李 |
いや、絵コンテは一切描かないですね。
本読みはしますけど、
リハーサルはそんなに
ガチガチにはやらないですね。
シーンにもよりますけど。
(註=本読みとは、立ち稽古の前に、
出演者が集まって、台本どおりに、
台詞の読み合わせをすること) |
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糸井 |
そういう監督なんですね、きっと。 |
李 |
そう、今は、そんな感じです。 |
糸井 |
これから、変わるかもしれない? |
李 |
ええ、変わるかもしれないですけど。
ただ、やっぱり役者ありきなんです。
生身の役者を一番芯にしたいんです。
本当は、1日現場でリハーサルやって、
リハーサルやりながらカットを決めて、
次の日に撮影、というのが、
いいなあって感じですよね(笑)。 |
糸井 |
自分も楽しみになりますよね(笑)。 |
李 |
けれど、やっぱり時間が
圧倒的に足りなくなるんです。
役者が動いてみないとわからないことって
たくさんあるんで、
現場入って役者が動くと
全部また崩していったりするんで、
そうだと時間がいくらあっても‥‥ |
糸井 |
時間かかりますねえ。
今ってどんどん管理しやすいほうに
映画も行ってるから、
アニメーションの技術に限りなく
近づいてますよね。
だから、もう何が撮られるかは
顔の角度まで全部コンテの中に決まってて、
そこに役者をはめていけば
管理しやすいから、
どうしてもそっちに行っちゃう、
その流れですよね。 |
李 |
そうですね。
別に映画でやらなくても
いいと思うんですけどね。 |
糸井 |
その意味では、演出中心のことが
好きな監督なんだなあと思った。
人間が何を叫んだり
動いたりするかっていう。
舞台なんかも、お好きですか。 |
李 |
やっぱり映像が好きなんですね、舞台より。 |
糸井 |
似てて違うんだね。 |
李 |
ちょっと違うんですね。
役者の動き、人間の動きがありながら、
それを次にどう切り取るか考えたいんです。
舞台だとそれでポンじゃないですか。 |
糸井 |
ですね。あと、舞台では
小声の芝居はないですよね。 |
李 |
ないですし、結局‥‥映像だと、
この例えば切り取った部分だけがほしくて、
ほかはなくてもいいっていう瞬間って
あるんですけど、舞台ってそこも‥‥ |
糸井 |
見えちゃうね(笑)。 |
李 |
ええ、全部作らなきゃ
いけないっていうのが。 |
糸井 |
全然種類が違いますね。
ご自分で「監督にでもなるかな」っていう
生意気なこと言ってたときに、
そういうこと言わせるような
映画があったんですか。
あれは面白かったなあ、みたいなのが。 |
李 |
監督になりたいと思ったのって
映画学校入ってあとで、
けっこう最近なんですよ。
最初はとりあえず何か映画の
プロデューサーとかそういう製作系に
行きたいなと思ってたんです。
それが、学校で卒業制作とか
一応自分で作ったら、
ハマってったんですね。
大学生ぐらいまではハリウッド映画とか、
シュワルツェネッガーとか
トム・クルーズとかが好きだったので、
そんな感じで、
今村さんの映画学校に入って、
周りにけっこう映画オタクがいっぱいいて。 |
糸井 |
みんな生意気なこと言いますよね(笑)。 |
李 |
ええ。何のことなのか
全然わからなくて(笑)。
ゴダールってそれF1の
ドライバーじゃなかったっけなとか(笑)。
「ああ」とか言いながら
聞いてるんですけど、
よくわかんないなあとか思いながら、
それでも一応ビデオで借りて見とくかと
思って見た中では、
やっぱりでも日本映画が面白かったですね、
昔の。黒澤明とか今村昌平とか。
自分が作る側になるってことを
だんだん意識するようになってきたんで、
よりそこにシンパシーが湧くものを
面白く感じるようになって、
自分が見たいのと作りたいのが
だんだん一致してきたんです。
昔は見たいのが超大作だったんですけど、
自分で作ることが
だんだんリアリティを持ってきたんで。 |
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(続きます!) |