…ま、それも「学校」の話。伊集院光✕糸井重里 …ま、それも「学校」の話。伊集院光✕糸井重里
面白くて笑ってばかりだったんですけど、
伊集院光さんと糸井重里の対談があったんです。
公開対談でね、そう、「ほぼ日の學校」の!

テーマが一応「学校」なんですけど、
関係なさそうな話がどんどん出てくるんです。
円楽師匠の話や『粗忽長屋』の話になったり、
伊集院さんの奥さんと糸井の共通点が語られたり、
謎の旅の話をしたり、窓ガラスに鳥がぶつかったり、
だいぶ下品なたとえ話が登場したり。
‥‥でもふと気づくと、いつのまにかそれが
「学校」や「学び」の話にもなっていて。

ふたりが掛け合わさると、こんなふうに話が
広がっていくんだ!という驚きのある全15回。
ま、どうぞ、ごらんください。
4.頬っぺたのナルト。
伊集院
いまはメールが増えてなくなっちゃったけど、
手書きで文章書いてて間違えて、2文字の漢字が
合体したようなやつを書いちゃって、
「でもこれよくできてるな」
ってこと、ありますよね。


教科書的には間違いでも、
ああいうものの正しさってあって。
糸井
絶対にありますよね。
もともとの漢字がそうやってできていて、
残ってきたものがいまの漢字だから。
ああいうの、いくらでも作れるじゃないですか。


つまり、寿司屋の湯呑ですよね。
「魚へん」に「周」で「鯛」だとか、
「魚へん」に「弱」で「鰯」とか。
「それクイズだろ」みたいな。
伊集院
昔誰かが、イワシって書こうと思って、
「なんだっけあの弱そうな魚‥‥」で、
「鰯」って書いて。
糸井
イワシはいまだったら、
「魚へん」に「安」とか書いてみたいですね。
写真
伊集院
それを見て、受け取った僕は
「今安いよなイワシ、これイワシのこと書いてるな」。


そういうものが正解とか理屈とかを
超えてくる感覚ってあって。
糸井
だからほんとはみんな、そういう
「仮につけられた名前」で、
生きてるんだと思うんですよ。


そのことに思いを馳せると、
「名前がないときから生きてる」って状態が
肯定されるというか。


「名前がついたらおしまい」って
『ゲド戦記』のテーマじゃないですか。
名前を言われちゃったら、
マジックを使えなくなっちゃうわけで。
伊集院
あ、そういうことなんだ。
名前がついたら終わり。
糸井
だから僕はキャッチフレーズを作る仕事を
してましたけど、
キャッチフレーズを作ったときって、
本当は「終わり」なんですよね。
人やものやサービスが、そこに限定されちゃうわけだから。


たとえばこう、伊集院さんの頬っぺたに、
うずまきの「ナルト」みたいな模様を
描いたとしますよね。
刺青で彫っちゃったとしますよね。
伊集院
勇気いりますね(笑)。
糸井
で、それ、人はみんな、絶対見ますよね。
頬っぺたのナルト。
伊集院
見ます。
糸井
あ、天才バカボンがそうでしたね。
伊集院
ついてましたね、グルグルって。
糸井
そこで伊集院さんのあだ名はおそらく
「ナルト」か「うずまき」になりますよね。
伊集院
うわー、そうなるわ。
写真
糸井
それ以外のところは全部忘れられて、
「ナルト元気?」って言いますよね。
伊集院
ほんとだ。
もう「伊集院」ですらなくなった。
糸井
そうすると、それから先は、
ナルトじゃないことをどんなにやっても
「またナルトが?」って言われますよね。
伊集院
一発ギャグで売れちゃう人って、
みんなそれを背負いますよね。
糸井
大変ですよね。
伊集院
もう芸名でも何でもなくて、
「‥‥ラッスンゴレライの人だよね?」
っていう。
会場
(笑)
伊集院
「今日はラッスンゴレライやらないんだ」
「ラッスンゴレライ、まだやるんだ」
「ラッスンゴレライの
ちょっと変わったバージョンなんだ」
「え、ラッスンゴレライなのにいま、
なんかバンで食べもの売ってんの?」
みたいな。


結局彼のこと、もうわかんない。
糸井
(笑)‥‥もうすごいなと思うのは、
伊集院さん、その話するのにも
たたみかけますよね。
会場
(笑)
伊集院
それはもう、落語で学んじゃったんで。
糸井
すばらしいと思う。
写真
伊集院
でも糸井さんがされてきた
キャッチコピーをつける仕事って、
「いままでみんなが思い込んでた
わかりにくかったやつに、ちゃんと名前を付け直す」
みたいな作業じゃないですか。
糸井
「あだ名」ですよね。
伊集院
で、それが有名になりすぎると、
今度そいつがちょっとまた
足かせになってくるのは、面白い。
糸井
そうですね。だから広告って、
「消えちゃうもの」という前提でやってるんですよ。


花火大会の花火みたいなもんで、
「長岡のスターマインは」とか言っても、
みんなの思い出のなかにのこるだけで、
写真を撮ってもそれは別物だし、消えちゃうから、
「よかったね、今日来て」って思えるわけです。


だから「広告いつまでも覚えてますよ」って言われるのは、
本当はあんまり違うんだと思うんですよ。
「名作ありますよね」
「うん、そうなんだけど‥‥そうね」って。
伊集院
なるほどね。
時代が変われば、同じものであっても、
意味が変わっているはずだからっていう。
糸井
1980何年のコピーが褒められたときには、
「その当時の褒められ方」であって。


ちょっと歌とは違うんです。
歌はそのときのものなのに、残っててほしいんですよね。
伊集院
いまはサンマとか高くなってるわけで、
高級魚のはずだから、
同じサンマであっても、その位置は変わったりとか。
糸井
そう。まさしく落語なんかだと、
「いまは1両、2両じゃ通じないから
どうしようか」みたいなことを
絶えず考えるんだと思うんですけど。


あれは「残っててほしい」ってベクトルと、
「残ってなくても、そのときの関係が
感じられればいいんだよ」
という両方があるんですよね。
伊集院
(突然)‥‥うわー。
もうすごいわ、これすごいわ。
糸井
どうしたんですか。
伊集院
いや僕ね、師匠が亡くなる前に、
急に、35年ぶりぐらいに機会があって、
師匠の前で落語をやったんです。


こっちはね、いいとこ見せたいんですよ。
要は、落語をやってない芸能人が落語をやっても、
うちの師匠は褒めるけど、
「それより、あんたんとこで僕は
何年か修行したんだから」って、
上手いとこ見せたいから。


僕のなかで『死神』っていう古典を、
一所懸命「この話はこうだ」ってやって、
「師匠どうだ!」ってぐらいに
仕上げたつもりなんですけど。


終わってから褒めるの待ってたら、
師匠がひとこと、
「さて、ここから削る作業だな」って。
写真
糸井
わぁ。
伊集院
こっちは現代の人に伝わるようにしたいから、
全部言うんですよ。


だけど結局、師匠としては、
そこまでは試作段階で、
「どれぐらい、どれ抜いて伝わるか」っていう。
糸井
はぁー。
伊集院
なんかいま、映画を褒めるときに
「すべての伏線が回収されてる」
とか言うじゃないですか。
糸井
‥‥あ、ダメ! あんなのもう。
会場
(笑)
伊集院
絶対ダメですよね。
「なにお前勝手に回収してんだよ」って。
会場
(笑)
伊集院
「俺の! 俺のは? 俺の分があるはずだろ」
って思うのに、全部回収して
「はいどうもーっ!」って帰るじゃないですか。
糸井
回収をチェックする団体がありますよね。
伊集院
あるんですよ。
「あそこが回収されてない」
って言うじゃないですか。
「いやいや、それはお前の回収する分だよ」
っていう。
そのためにとってくれてるやつじゃん。
会場
(笑)
写真
伊集院
もちろん、本当に大事なものが
回収されてないのはダメなんだろうけど、
いちばんの売りが
「伏線が回収されてること」なんか、
ダメですよね。
糸井
そう、方程式を解いてるんじゃないんだから。
伊集院
そうなんですよ。


で、映画見てても
「これ伏線だな」って思われてるやつは
ダメじゃないですか。
あれと一緒で。やっぱり。


だから僕は『死神』という落語をやったとき、
「その借金苦の男に、なぜ死神が見えるのか」
を知りたいし、
そこにスッキリする答えが欲しくて、
どうのこうのいっぱい入れてったんですけど、
それ、「自分入れすぎたな」と思って。
(つづきます)
2024-02-03-SAT