面白くて笑ってばかりだったんですけど、
伊集院光さんと糸井重里の対談があったんです。
公開対談でね、そう、
「ほぼ日の學校」の!
テーマが一応「学校」なんですけど、
関係なさそうな話がどんどん出てくるんです。
円楽師匠の話や『粗忽長屋』の話になったり、
伊集院さんの奥さんと糸井の共通点が語られたり、
謎の旅の話をしたり、窓ガラスに鳥がぶつかったり、
だいぶ下品なたとえ話が登場したり。
‥‥でもふと気づくと、いつのまにかそれが
「学校」や「学び」の話にもなっていて。
ふたりが掛け合わさると、こんなふうに話が
広がっていくんだ!という驚きのある全15回。
ま、どうぞ、ごらんください。
- 糸井
- ある種の言葉って、それだけで
すごく力を発揮できちゃうんですね。
一部分を強調したずるい言い方とか、
ひどい言葉を使うことで、
相手の力を弱めることができちゃうんです。
で、それを人間がやる場合には
「お前それ、言っただけのことを
やるんだろうな?」
って、自分自身が問いかけられるんです。
だけど、なんとコンピューターは、
どんなに力を持った言葉を発揮しても
「反作用」がないんですよ。
コンピューターっていじめられないんですよ。
- 伊集院
- あーー、そうか。
そういうことか。
- 糸井
- 力って、使った分だけ、責任とか、
自分もそれだけの反作用を受けるんですよ。
「バカ」って言ったら、「バカ」っていう。
「バカって言うもんがバカじゃ」という
言い方もありますけど。
だけどコンピューターは、べつにそのまま
「バカと言う者がバカですね」って、
また言い返してればいいわけで。
痛くも痒くもないんですよ。
生活とか、命がないから。
- 伊集院
- そうなんだよなあ。
言葉を発せられるけれども、
べつにコンピューター自体に責任がない。
ほんとにそこが、まずいですね。
だけど、不思議なもんで、
「責任がないやつが発してるものなんだから
気にしなければいいじゃん」
ってわけになかなかいかないんですよ。
なんか我々は、普通に点が3つあるだけで、
そこが愛くるしくなっちゃうような、
そこを擬人化しちゃうような動物なんですね。
- 糸井
- 「力そのもの」はあるんですよね。
- 伊集院
- 「責任がなくて、力があるやつ」
いちばん怖いですね。
- 糸井
- 昔だったら「表現」というのも、
先に本物のコップがあって、
そのコップについて、
文章を書くとか、詩にするとか、
コップを歌ってみようとか、
そういうものだったんだけど。
いまは、そこにコップがないところで、
コップの絵や情報から、詩を作れちゃうわけで。
「二次元オタク」とかいるじゃないですか。
それって、それがべつにダメとかじゃなくて、
もととなる女の子がいなくて、
「絵で誰かが描いたもの」なのに好きってことでしょ?
で、いまはさらに、そこにまたべつの誰かが、
「それを思ってるあなたが好き」
ということまであって。
- 伊集院
- だからそうなんですよね。
その想像は、いいほうのベクトルにも行くし、
逆に暴走しはじめちゃうと、
どうしたらいいかわかんないところにも行くし。
逆に言うと、ああいうキャラクターを
ちゃんと頭のなかでリアルな存在として認識できる
人間の能力の高さって、
いいこともいっぱいありますけどね。
- 糸井
- あります、あります。
- 伊集院
- ましてや、その自覚を持ってやってる分には
趣味としていいんだけれども。
- 糸井
- ええ。
- 伊集院
- ただ、いまSNSとかだと、
人から聞いた断片的な伝聞に急に腹を立てて、
「そう言やさ、そういうやつ
ほかにもいるよね」
みたいに話が広がっていくことまで起きてて、
「‥‥え、もともとなに?」みたいな。
「伊集院ってこういうやつなんだよね。
会ったことないけど」
っていう人が現れて、
「ラジオを聞いたことがある」までは
まだ共有できても、
「俺、その伊集院っていうやつ、
知らねえけど許せねえな」
みたいな話にもなってきて、
「そういうやつって、
きっとこういうこともするんだよ」
となってくのって、ちょっと不思議っていうか
‥‥止まらないですよね。
- 糸井
- つまり人間が
「情報には実体がある」と思って
生きていた時代には
「人を殴ったら、自分が殴られるよ」とかが
実感できてたんだと思うんです。
でも、たとえばいま、
「2億人を殺すボタンがここにあるとします」
って言ったら、
みんな「ああ、2億人」とかって
想像できちゃうわけですよね。
で、痛くも痒くもないわけですよね。
頭のなかでそのボタンを押すのは。
その設定でみんなが考え合ってるところに
世界が成り立ってるわけだから、
それは、乱暴なことっていうのが、
痛くも痒くもなくできるようになるし。
- 伊集院
- きっと、ぐるぐる回るテーマだけど、
「効率的である」ってことが
振り落としてきたなにかだと思うんです。
わざわざ「もの」を見なくても「像」で見れます。
もはや「像」でもなくて、
もっとリアルに見えるけれども。
じゃ、そこで「効率」の代わりに
振り落としてきたものが、
下手すれば「責任」だったりとか、
本物から感じなければいけない
「恐怖」みたいなものとかで。
「恐怖なく近寄れたほうがいいじゃん」
といったことのかわりに、
たぶんなにか削ぎ落とされてて。
でも、ほんとはそういうところを
ちゃんと補充した上で、
同時に効率化が上がってるやつみたいなものが
どんどん出てこないと、ダメなんだろうな。
- 糸井
- いちばん簡単なのは、さっき伊集院さんが言った
「もともと何だっけ?」を
わかるかどうかだけだと思うんですよね。
- 伊集院
- 「もともと何だっけ?」
- 糸井
- たとえばいま、
「東京のマンションは4億5億らしいよ」
みたいな話を聞いても、誰も驚かないんですよ。
「4億5億らしいよな。
このあいだは7億って言ってた」とかって、
何にも自分に関係ないじゃないですか。
でも「うちのアパート5万円なんだよ」
という話のときには、
「5万円」も観念だけど、
少なくとも5万円の感覚がわかってましたよね。
いま、そういう感覚がどんどん離れていってて。
「殴れば血が出る」とかもそうで。
さっきのあのハトの話がすごいのは、
「血が出た」っていうのを。
- 伊集院
- それも自分の目で見てるし、
音から何から実は全部感じてたんですよね。
- 糸井
- で、「つぶれ」っていう。
- 伊集院
- 的確な。
- 糸井
- 全部、その存在してるものとの
距離があるから、それが
「歌」として聞こえるんだと思うんですよね。
- 伊集院
- これはすごい、もう掛け軸に書いとくべき。
「もともと何だっけ?」。
俺ら、いろんなところで
小利口になりすぎているから。
- 糸井
- そうですね。
- 伊集院
- いや、お笑いやってても、
「もともと何だっけ?」を忘れて
忙しくなっていくんですよ。
で、自分のギャランティが
どれぐらいだと適切なのかとかも、
もはやわかんないんですよ。
「松村邦洋くん、いくらもらってんだって?」
なんつって
「じゃ俺いくら!」ってやってくうちに、
「もともと何だっけ?」も、全然わかんなくなってて。
だからその、
「もともと自分が最初にお笑いを
やりたかった理由は、やっぱり落語家になって、
おしゃべりやりたかったんだよな」
みたいなことを、たまに固め直さないと、
「いい暮らしがしたい」
「お金が欲しい」みたいな、
お金の額面みたいなものに
上手にすり替わっちゃいますよね。
- 糸井
- つまり、
「価値があるとされること」に
自分を寄せていってしまうという。
- 伊集院
- で、そこに言葉ができちゃうから、
なんとなく漠然としてきて、
「あ、なんなんだろう?」となってくるという。
(つづきます)
2024-02-12-MON
(C) HOBONICHI