キーンコーンカーンコーーン!
池上彰さんを「ほぼ日」にお迎えして、
糸井重里と2時間の特別授業が行われました。
NHKの記者、首都圏ニュースのキャスター、
『週刊こどもニュース』のお父さんを経て
ジャーナリストとして大活躍中の池上さん。
どんなジャンルでも、わかりやすく解説してくれる
「池上彰」という新しい職業ができたのでは?
そんな池上さんの居場所ができるまでのお話を、
即興解説を交え、たっぷり全13回でお届けします。
- 糸井
- 池上さんは、周囲の話題に追いつこうとして
人並みかそれ以上の勉強をして、
記者になろうと思ったわけですよね。
- 池上
- 記者に憧れたのは、小学校のときなんですよ。
朝日新聞の地方記者のドキュメントを読みまして、
地方の支局で働く新聞記者って
おもしろいなと思ったんです。
事件があれば現場に行き、
ライバルの新聞社と特ダネ競争をする。
あるいは殺人犯を追っかけていたら
警察より先に犯人に行き当たっちゃって、
自首するように言ったとか、
そんなドキュメントがあったんです。
- 糸井
- その時代の憧れの職業の一つに、
新聞記者があったかもしれませんね。
- 池上
- そうですね。
当時は、テレビのニュースというのも
ほとんどありませんでしたから。
NHKが短い時間で放送していましたけど、
民放にはそもそもニュースがなかった。
- 糸井
- ああ、そうでしたか。
- 池上
- 一方でNHKでは島田一男原作の
『事件記者』というドラマをやっていて、
警視庁記者クラブを舞台にしていたんです。
あんなドラマを見ているうちに、
「記者ってカッコいいなあ」って憧れて。
- 糸井
- ありました、ありました。
- 池上
- 私が大学で就職活動をする頃には、
テレビのニュースも少しずつは出てきました。
TBSでは『ニュースコープ』という
夕方30分間のニュース番組がありましたけど、
他ではほとんどニュースはやっていません。
それでもテレビの時代が来るなと予感できたのが、
「あさま山荘事件」でした。
私が大学3年生の終わり頃の寒い冬でしたね。
それまでニュース番組なんて少なかった中で、
NHKも民放も、あさま山荘事件については、
朝から晩まで毎日中継していたんです。
- 糸井
- 一日中そのニュースでしたよね。
- 池上
- みんな、釘づけになるわけですね。
あの頃の視聴率は、
70%とか80%を記録してましたから。
- 糸井
- ニュースというか、
ずっと雪景色なのにね(笑)。
- 池上
- 若い人にはわからないと思うので
念のためにお話をしますね。
連合赤軍というのがありまして、
群馬県の山の中で革命を起こすために
武装闘争の訓練をしていたら、
警察に見つかっちゃった。
山を越えて北に逃げて山を降りたら、
そこが軽井沢だった。
河合楽器の浅間山荘というところに逃げ込んで、
管理人の奥さんを人質にとって
銃を発砲するという事件でした。
あのとき、NHKが国会中継も中止にしたんですよ。
- 糸井
- 大学生だった池上さんは、
裏の事情については知らないままでも、
テレビの前で釘づけだったんですか?
- 池上
- みーんなとにかく釘づけで、
事件の話ばっかりなわけですから。
「これからはテレビの時代なのかもしれないな」
と、この事件でふと思ったんですよね。
- 糸井
- それでNHKに入るわけですか。
- 池上
- 大学4年で就職活動をして、
就職協定の関係で採用活動は7月1日からでした。
あのとき7月1日に学科試験を行ったのが
朝日、毎日、読売、共同通信、NHK。
しかし、一日にどこか一社しか受けられません。
新聞社とNHKの試験日が一緒でしたから、
どうしようかなあって迷いに迷って、
結局NHKの試験を受けることにしました。
なぜかと言えば、NHKに入れば
記者は必ず地方勤務から始まるんです。
私がもともと憧れていた地方記者と
同じ仕事ができるわけですね。
- 糸井
- イメージの記者像が実現するんだ。
- 池上
- 実現するんですよ、NHKにいても。
「テレビの時代かなあ」と思う一方で、
「地方記者になりたい」という願望も満たされるのが
NHKだという思いがあって試験を受けました。
- 糸井
- 記者への憧れの正体は何だったんですか。
ドラマチックなんですかね。
- 池上
- 家からどこか外に出ていきたいという思いが、
小学校のときからあったんですよね。
- 糸井
- 新聞記者っていう名目があると、
どこにでも潜り込めますもんね。
線の引かれていない自由な生き方ができるから。
- 池上
- 特に地方記者なら転勤が必ずありますから、
東京から外に出られるわけです。
「日本全国を会社のお金で見て回れるんだ」
というふうに思っていました。
- 糸井
- その欲望って、子どもにはありそうですね。
池上さんは小学生の頃からブレたりせず、
就職の年までいたんですね。
- 池上
- 実は、途中ブレたこともあって。
- 糸井
- 何にブレたんでしょう。
- 池上
- 中学校のときに天文気象部に入って、
気象観測を始めたところ、
お天気の観測がおもしろかったんです。
将来も気象庁の予報官になって
天気予報をやりたいなと思いまして。
というのもね、現在は気象予報士という
国家資格がありますが、当時はなかったんです。
当時は気象業務法という法律で、
気象庁の職員以外が天気予報を出すのは
法律違反だったんですよ。
高校生の頃に予報官になる方法を調べたら、
気象大学校という学校に行けと書かれていた。
- 糸井
- 気象大学校。
何ですか、それは。
- 池上
- 大学校というのは、
専門学校と大学の間なんです。
だから文部省の管轄ではないんですよ。
大学と同じ4年間でしたが、
気象大学校に入った途端、国家公務員として、
わずかながら給料がもらえます。
学費を払わないどころか、
給料をもらいながら勉強するんです。
- 糸井
- いわば、養成所なんですね。
- 池上
- そうです、そうです。
ただね、私はすぐに諦めてしまうわけです。
というのも、気象大学校はバリバリの理科系で、
数学と物理ができないと
とてもダメだってことがわかりまして。
大気現象っていうのは物理現象ですから。
- 糸井
- 理科系は、お得意ではなかったんですか。
- 池上
- 私は高校1年の数学で挫折をいたしました(笑)。
数学がすっかり苦手になっちゃいまして。
「ああ、こりゃもうダメだ」と。
そこで挫折をしましたね。
- 糸井
- 天気予報を諦めた理由は、
理科系が得意じゃなかったから。
- 池上
- ええ、それだけです。
(つづきます)
2018-12-03-MON
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN