池谷裕二さんが書いた絵本
『生きているのはなぜだろう。』が
出版されて数か月が経ちました。
いま改めて池谷さんに問いたいのは、
なぜ世界はここにあるのか、ということです。
絵本を読んでいないみなさんにも
おたのしみいただけるように、この連載では、
本の筋にふれている言葉は隠しています。
隠したまま読んでも、このインタビューは
充分たのしめると思います。
池谷さんのいる東京大学の研究室にうかがったのは、
ほぼ日絵本編集チームの永田と菅野です。
文は菅野がまとめています。
2019年9月3日(火)に、池谷裕二さんによる
『生きているのはなぜだろう。』についての
特別授業があります。
ぜひ生で、池谷さんの講義を聴きにきてください。
絵本『生きているのはなぜだろう。』を
すでに読んだ方は、
ここをクリックしてからお読みください。
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──小さい頃から私たちは
「後づけの意味づけ」をしているんですか?
池谷赤ちゃんはものがよく見えないと
言われますよね?
それは正しいのですが、
一般的な「見えない」とは
ちょっとニュアンスが違うかもしれません。
赤ちゃんの網膜はすべて正常ですし、
ピピピ信号も、すでに網膜から脳に送られています。
でも、そのピピピ信号の意味が、
赤ちゃんにはわからないのです。
視覚というものの存在に気づいていないからです。
手を動かすのも同じことです。
これは運動野の神経がピピピと発火して、
筋肉に届けられて収縮するのです。
赤ちゃんはまだ、自分の脳のピピピ信号と
手の動きの因果関係がわかっていません。
「脳のこのへんの神経をピピピッとさせてみよう」
なんてことをしてみたら、なんと手が動くわけです。
でも、それが赤ちゃんにはわかんないんです。
それ以前の問題として、
「自分の手が動いているのが見える」という点で、
そもそも「見え」という視覚の概念が、
まだ成立していませんから。
ピピピとある神経を発火させてみたら、
なんだか目の前を
モサモサっと手が通ったようなピピピ信号が、
また脳を通って返ってくる。
つまり、脳にとっては、
あるピピピ信号を作ると、
別のピピピ信号が戻ってくる──、
ただそれだけのことなんです。
そういう経験を何か月も何年も続けると、徐々に
「あ、これは自分の身体の一部で、
これを手と仮定すればいいんじゃないか」
なんて考えていくことで、
表面上つじつまが合います。
正しい、というより、矛盾がない、という程度の
仮想上の因果関係です。
次にこの「手」という仮想を使って、
触れてみたものが
フィードバックされてまたピピピと入り
「これをさわった、とする」と、
さらにつじつまを合わせる。
そうして赤ちゃんは、この世界の「ありよう」を
どんどん獲得していくわけです。
「コップはある」という事実を、
現実にさわって
「ほら、ここにあるでしょう?」と
言いたくなりますが、つまり、それは逆なんです。
ものがあると仮定すれば
自分のなかのピピピ信号のつじつまが合っている、
少なくとも矛盾なく説明できる、
という仮説の状態なんです。
──ああ‥‥すごく恐ろしいです。
池谷「コップは確かにありますね」は、
自分の立てた仮説を
ただアノテーションしているだけの
いわば堂々巡りの自己言及なんです。
だから、その正しさは証明されていないわけです。
つまり「コップがそこにある」というのは
どんなにがんばっても、
それが脳のピピピにすぎない以上、
仮説の域を出ないわけです。
そうやって自分の経験を通じて獲得した
「見え」だから、
あくまでも「見え」は、
つねに自分に閉じた仮説です。
「見え」は個人的なものだから、
コップが他人はどう見えているかなんて考えることは、
仮説に仮説を重ねたようなもので、
もはやスーパー幻覚です。
──それを『古今和歌集』の時代から、
日本の人はわかってたんですね‥‥。
池谷そうそう(笑)、
またかなり飛びましたけど、
そうですね。
私の好きなあの歌ですね。
──世の中は
夢か現か
現とも
夢とも知らず
ありてなければ
詠み人知らず。
(いったいこの世は夢なのか現実なのか?
いやいや、現実だか夢だかわからないんだよ、
だって、あってないようなものなんだもの。
※菅野の訳です)
池谷詠み人知らず、というのは、
詠んだ人の名前がわからないということでも
あるんですが、
詠んだ人を特定することもないほど、
みんながうたっていたポピュラーな内容だよ、
という場合もあるんです。
こういうこと、みなさんも感じません?
私は小学生の頃からバリバリに感じていました。
目を閉じて開けたら、コップはここにある。
でも、目を閉じているあいだに
ここにコップがある証拠は、
どこにあるんだろう?
薄目で見ていたらどうだろう? ダメだ。
手で触って目を閉じたらどうだろう? ダメだ。
やりませんでした?
──いや‥‥‥‥。
池谷ぼくはめっちゃめちゃ、めっちゃめちゃ、
やってました(笑)。
クラスメートはそもそも全員いるのだろうか?
ぼくが教室から出てトイレに行ったらどうだろう。
教室に戻ったら、そりゃあ、みんないるさ。
でも、ぼくに気を利かせて、
もういちど全員が、
さっきと同じように並んだだけかもしれない。
いろいろ疑いはじめると、とまらない。
詠み人知らずのその歌はたぶん、
みんながそんなふうなことを
考えていたからじゃないかなぁと思います。
そういうことを不思議に思う人と
思わない人がいて、
それはようするに、哲学をするかしないかという
ことなんですけれども、
実は、それもけっこう遺伝する性格らしいです。
「これだ」という原因遺伝子は
見つかってないんですけどね。
──じゃあ、科学者には
そういう遺伝子を持つ人が多いんでしょうね。
池谷そうかもしれませんね。
目の前にあることが当たり前だと
すんなり受け止めては、
科学なんてできないですからね。
表面張力を見ても
「水がコップの上面で膨らむのは当たり前でしょう」
じゃダメ。
科学者は「なぜ膨らむんだろう」と
考えねばなりません。
すべて、おおもとは疑いなんです。
ぼくは性格がほんとうによくなくて(笑)。
──いや、池谷さんは「いい人」の代表のような方です、
ほんとうに。
池谷褒められても素直によろこびませんよ(笑)。
「ほんとにそう思ってるんだろうか」
「いや思ってないにちがいない」
もちろん、そんなことは絶対に口にはしません。
「そう言ってくださるとうれしいです」
なんて返答します。
すると相手も喜んでいるけれど、こんどはぼくのことを
「本気にしやがって単純だな」
と思っているかもしれない。
そうやってお互いに「本気にしやがって」と
思っているのが社交辞令です。
それが私たちの生きやすさにつながるのです。
──いろんなことがつじつま合わせなんですね‥‥。
池谷はい。
──しかし、すべてを疑い出すと
偏屈な感じになりませんか?
「コップはほんとうにあるのか?」
なんて考えながらジュースを飲んでも
おいしくない気がします。
池谷いや、逆にたのしいですよ。
なんというかポップです。
でもまぁ、私もふだんは
そういうことに蓋をして生きています。
さっきも申し上げたように、
「おまえ、ほんとうは褒めてないだろ」なんて
いちいち言いませんし、
ふだんは考えないように麻痺させてはいます。
でも、その二足のわらじを履いてる状態、
バイリンガルというか多重人格というか、
それを演じるたのしさが、
生きることなのではないかなと思います。
これは、多かれ少なかれ誰でもあると思う。
ぼくが特別に偏屈なのはわかりましたが(笑)、
でも、ポップな偏屈だと思います。
──養老孟司さんとの対談で、おふたりとも
いちいち考えていたら生活できない、と
おっしゃってましたね。
この世の中にあるのはじつは電磁波だけで、
考えていたらまともに毎日を送れない。
池谷そう。
ぼくらはみんな、上昇志向じゃなきゃいけなくて、
夢や目標に向かって未来に希望を持つ
前向きさを求められます。
でも、人間はずっとイケイケではいられません。
当然つまずいたりします。
でも、そんなときでも底なし沼じゃないよと、
あの本で伝えたかったのです。
──
池谷ない。
──
池谷ああ、それはほぼ日のみなさんから
絵本に解説を書いてくださいと言われて、
書いている間に、ふと、
ぼくが思いついた言葉です。
──そうなんですか。
池谷そのこともあわせて、
解説を書いてよかったです。
そのことに明示的に気づけたから。
──あの概念はけっこう衝撃でした。
池谷うん。勇気が出ますよね。
科学的に保証されているんです。安心感抜群。
──はい、すごいバウンド力がある言葉でした。
池谷よかったです。
──では、もうひとつだけ、
愚問をさせていただきます。
池谷なんでしょう?
──あのぅ、ビックバンの前って、
なんだったんですか?
池谷‥‥‥ああ、えーっと、うーん、
なんと言えばいいかな‥‥。