- ――
- 猪熊さんの絵について、
もう少しうかがってもいいでしょうか。
- 古野
- この美術館には、
小さいメモ帳も1枚1点と数えると、
猪熊の絵が約2万点残されています。
時代によって画風が変わっていくので、
1年に2、3回常設展を入れ替えていて、
全部見るとすべての時代が
網羅できるように考えています。
今は比較的若いときのものを展示しています。
- ――
- 若いころのもの。
- 古野
- 画業の前半は具象絵画で、
主に人物像を描いていました。
奥さんの絵もたくさん描いています。
- ――
- すごくきれいなかたですね。
- 古野
- 銀座を歩いていたら、
みんなが振り返るくらいの美人だったそうです。
30代半ばに猪熊はパリで2年間過ごし、
マティスの影響を受けます。
そして戦後、日本にいるあいだに、
絵というのは、色と形の組み合わせで
バランスがつくられている、と考えながら
人や猫を描いたんです。
それも、見たとおりに、じゃなくて、
形を変えたり、全然違う色を塗ったりして
具象と抽象とが混ざっているような
時期を何年か過ごします。
その後、ニューヨークに渡って、
画風がガラッと抽象に変わったんです。
- ――
- 猪熊さんといえば、抽象画の
印象がありますが、
それはニューヨークで培われたんですね。
- 古野
- 猪熊がニューヨークにいたころって、
気軽に海外へ行ける時代ではなかったんです。
なので、とりあえず、
「ニューヨークに行ったら、
まずは猪熊夫妻のところに行け」
と言われていて、
「民間大使」と呼ばれていたそうです。
奥さんがおもてなし上手で、
ジョン・レノンやオノ・ヨーコさんなど
そうそうたるメンバーともお友達で、
みんなが猪熊の家に集まってきて、
奥さんが料理をつくって。
「フミ・レストラン」と呼ばれていたそうです。
- ――
- へえー!
ジョン・レノンにも
日本料理をふるまったりしたんでしょうか。
- 古野
- そうかもしれませんね。
ニューヨークには20年住んでいました。
- ――
- (展示されていた小物を見て)
あ、これらは何でしょう。
- 古野
- 猪熊がパリやニューヨークから
持って帰ってきたものを展示しています。
- ――
- ひとつひとつのものが、
すごくかわいいですね。
- 古野
- 猪熊は、自分が持っている
いろんなものに思い入れがあるんです。
骨董とかそういうことではなくて、
自分にとって好きなものや
あると嬉しいものを身の回りに置いて、
生活の中で使う、ということを
心がけていました。
- ――
- 生活が美しいもので囲まれてる感じ、
これらを見ていると、よくわかります。
- 古野
- フランスにいたころ、
第二次世界大戦が始まって、
仲良しだった画家の藤田嗣治さんに誘われて、
2家族で南仏のほうに疎開するんですけど、
そこで買ったお土産ものもあるんですよ。
- ――
- やっぱり疎開先でも、
こういう美しいものを求めて買うんですね。
- 古野
- 戦争中、日本軍の従軍画家として
最前線へ派遣されたときには、
これを持っていったそうです。
パリのアンティークショップで
買った手回しのオルゴールなんですけど‥‥。
- ――
- え、軍隊生活にも
このオルゴールを‥‥?
- 古野
- タイとビルマのあいだのジャングルに、
日本軍が鉄道を敷いていたんですけど、
そこに猪熊も従軍画家として派遣されます。
コレラが流行って、バタバタと人が亡くなって、
本当に凄惨な状況だったそうです。
でも、猪熊はどんなときでも
楽しそうにしていたから、隊長さんに
「猪熊さんはどうしてそんなに
毎日にこにこしているんですか」
と訊かれて、
「絵描きなので、見たこともない大自然や
美しいものを見ると心が安らぐんです」
と言ったそうです。
そして、夜のジャングルに、
このオルゴールを響き渡らせて心を慰めていたと。
- ――
- すさまじく悲惨な状況でも、
美しく、明るいほうを見ようとしていた‥‥。
- 古野
- 明るさ、というのを
猪熊はいつも意識していると思います。
戦争が終わると、壁画や表紙絵や包装紙といった
暮らしの中にあるデザインに積極的に関わりました。
それは当時の芸術家には
めずらしいことなんです。
金儲けのためにやっていると
揶揄されることもあったんですが、本人としては、
人の暮らしを彩りたいという考えがあって、
「芸術は大衆のものだ」
ということをはっきり言っています。
美しいものが生活の中にある、
ということを大事にしていたんです。
- ーー
- 美しいものが生活のなかにある。
- 古野
- はい。そして「美しさ」というのは、
まずは生活からなんです。
ここの開館のときに
猪熊本人から指導を受けた学芸員に
「猪熊をどう思うか」と訊いたら、
「生活者だったと思う」と言ったんです。
自分が提供する作品に関しても、
見る人の心が明るくなるように考えていました。
だから、猪熊の作品には暗さがないんです。
近年「ほぼ日」さんが取り組まれている
「生活のたのしみ展」も、その考え方が
猪熊と共通するように感じています。
最初に「生活のたのしみ展」
というタイトルを見たとき、
「そうだよね」ってすごく思ったんです。
- ――
- そんなふうに感じてくださったんですね。
猪熊さんって、
どういうお人柄だったんでしょう。
- 古野
- 会った人たちが口を揃えて言うことがあって、
一つ目は、
「誰に対しても同じだった」
ということです。
年齢も職業も立場も関係なく、
全員に同じように接していたそうです。
で、もう一つは、
「人に批判めいたことを言わず、
必ずいいところを見つけて言う」ということ。
もう一つは、
「すごく姿勢がよくてシュッとして、
90歳近くになっても、歩くのが速かった」
ということ。
うちの職員に限らず、猪熊を知っている人は、
みんなこの三つを言いますね。
- 古野
- とにかくずっと絵を描き続けて、
最晩年、亡くなる3日前にも
美術館に来て指導していたんです。
東京に戻ってパタッと倒れて亡くなって‥‥。
90歳でした。
だから本当に、生涯現役だったんです。
- ――
- 90歳までずっとお元気で生涯現役だった‥‥
なんだか、
「アンパンマン」のやなせたかしさんと
通じるものを感じました。
やなせさんも同じ四国出身ですし、
猪熊さんとのエピソードもあるんですよね。
- 古野
- そうなんです。
1950年に三越デパートさんが
猪熊に包装紙デザインを頼んだんですが、
それまで包装紙というものは、
あまりデザイン性がないものでした。
だけど、何かクリスマス用に新しいものを、
という発注を猪熊が受けたんです。
当時のやなせたかしさんは、
三越の宣伝部のデザイナーをしていて、
猪熊のところにやなせさんが
デザインを取りに来た、というご縁なんです。
- ーー
- 今も三越で使われている、
あの赤と白の包装紙ですね。
- 古野
- はい。もともとはクリスマス仕様、
ということだったんですが、好評で、
その後もずっと使われることになりました。
あれは型紙を切ってつくっているんですが、
受け取りにきたやなせさんに、
型紙をテープで紙に貼ってあるものを渡して、
「文字は君が書いといて」と伝えたそうです。
それで、やなせさんがご自身で
「Mitsukoshi」と書いた、という話です。
- ーー
- ある意味、合作なわけですね。
- 古野
- そうだ、糸井さんとの合作もあるんですよ。
西武百貨店のポスターなんですけど、
糸井重里さんのコピーと
猪熊の絵の組み合わせなんです。
- ――
- なんと糸井とも縁があったんですね。
知らなかったです。
(つづきます)
2018-02-24-SAT