宮本 伊丹さんは、台本が来ると、
演出家と話し合って
自分のセリフに直しを入れることがありました。
『峠の群像』で
忠臣蔵の吉良をやったときも
「吉良だったらこういうことは言わない。
 こういうスケールの人間だから、
 浅野に対して、これは格が違うと思う」
糸井 なるほど。
宮本 あまりごり押しということではなく、
監督や演出の方と、お互いに納得いくまで
話し合いをしていました。
糸井 伊丹さんは、それができる人ですよね。
宮本 そういうスタイルで
ずっとやっていたようです。
糸井 そういうことって、新人のときには
なかなかできるもんじゃないでしょう?
宮本 はい。
まずは次、仕事来ません。
糸井 (笑)
宮本 ある程度、キャリアのある俳優にならないと
もちろん信用してくださらない。
だけど、意見を聞いてくださることで、
ドラマがより膨らむこともありますから。
それは、監督もご存知です。
糸井 そうですよね、
俳優も監督もプロデューサーも、
目的が充分イメージできているときには、
平和に、気持ちよく、話し合いとして
意見を言い合って
よりよいものをつくり上げていくことが
できます。
宮本 そうです。
糸井 でも、俳優は受け身の仕事だ、と
まるっきり考えている俳優さんだったら、
きっとそういうことはおっしゃいませんね。
強いリーダーが考えたことのなかで
最良の実現をするのが仕事だ、
という考えだってあります。
映画なんて特に
そうじゃないでしょうか?
宮本 そうですね、
意見をおっしゃる方と、
なんにもおっしゃらない方、
両方に分かれます。
糸井 「お好きなように。
 私はやりますから」
そういう美意識もありますよね。
宮本 あります。
でも、そうじゃないのが、伊丹さんです。
私も、
「この役だったら、
 こういうことはどうでしょう」
ということは、はじまる前にぶつけてみます。
この前の大河ドラマの
ナレーションのお仕事でも、そうでした。
「ございます」にするのか、
「ございました」にするのか、
流れはどちらがいいのか、
言葉遣いが現代的だったりする場合など、
すべて現場で相談しました。
糸井 それもある程度、
現場となかよくないと、やりにくいですよね?
宮本 はい。まずはやっぱり、信頼関係ですから。
いきなり「ここはこうしてください」なんて
もちろん言いません。
お互いに理解してやっていこうとするときには、
言い方って、とても大切です。
すごくデリケートでしょう。
糸井 うん、うん。
宮本 でも、演じる自分がちゃんと
納得してできるように、
なんとかわかっていただこうと、
そこは努力します。
きっと私は、
伊丹さんのそういうところを見て
習っていたんでしょうね。
糸井 その、ていねいなやり方を。
宮本 はい。
仕事の現場というものは、
基本的には平和じゃないと
力が出ないので。
糸井 そのとおりですね。
宮本 ですから、その前に全部済ませておいて、
現場では思いきりバーンといく、
そういうふうにならないと
いけないと思っています。
ですから、ケンカはしません。
糸井 一緒にいいものをつくりたいな、
という思いだけ。
宮本 それひとつだけです。
糸井 伊丹さんが映画をつくろうと思われたあたりは、
おふたりとも、俳優として、
そんなやりとりができるくらいの場所に
いらっしゃったということですよね。
宮本 私は、どうでしょう?
まだいなかったと思います。
糸井 あ、まだダメですか。
宮本 現場でいろんなことを言っていたとしても、
いまのようには言えなかったです。
(続きます!)
column伊丹十三さんのモノ、コト、ヒト。

30. 俳優・伊丹十三。

1960年、26歳の時に東宝映画『嫌い嫌い嫌い』に
伊丹一三の名で主演デビューしてから、
51歳で監督デビューするまでに、
伊丹さんは俳優としてたくさんの作品に参加されました。

主には映画とテレビドラマで、
おおざっぱに言ってどちらもだいたい50本ずつ。
合計100ほどの役を演じられたことになります。

映画はこのコラムでも紹介した『北京の55日』、
『ロード・ジム』といったハリウッド作品のほかに、
『黒い十人の女』(1961年)、
『もう頬づえはつかない』(1979年)、
『スローなブギにしてくれ』(1981年)などがあります。
渋く、ちょっと癖のある役者として活躍され、
俳優生活の後期にあたる1983年には
『細雪』と『家族ゲーム』で
キネマ旬報賞助演男優賞を受賞されました。

テレビドラマは、
初エッセイ集『ヨーロッパ退屈日記』が出版されたころ、
『あしたの家族』(NHK)が最初の作品となります。
この作品には、後に奥さまとなる宮本信子さんも
出演されていました。

テレビドラマもそうそうたる作品に多く登場されました。
『源氏物語』(1965年)では、黒柳徹子さんと共演。
また本人が気に入っていたという役を演じた
『悪一代』(1969年)は
勝新太郎さんの映画『座頭市』に連なる作品で、
奇跡的に残っていた映像の一部を
DVD『13の顔を持つ男』で観ることができます。


▲湯河原の別荘から発見された、『悪一代』の映像。
 (DVD『13の顔を持つ男』より)


このほかにも『コメットさん』(1967年放送開始。
伊丹さんの出演は1968年)
『必殺仕置人』(1973年)、
『死にたがる子』(1979年)、
『北の国から』(1981〜82年)
NHK大河ドラマ『峠の群像』(1982年)などがあります。
赤穂浪士を題材とした『峠の群像』で演じた吉良上野介は
癖と深みのある役を演じるのが得意な伊丹さんらしい、
すばらしい敵役でした。

俳優としての映画出演は、
『家族ゲーム』ののち監督に専念されたため間をおいて、
それまで伊丹組の助監督として伊丹映画を支えていた
当摩寿史さん監督の
『C(コンビニエンス)・ジャック』(1992年)が
最後の作品となりました。

また、俳優としてではないのですが、
テレビドラマとの関わりは、そのころ親交を深め、
伊丹映画にも企画で参加していた三谷幸喜さんの
『3番テーブルの客』(1996年開始。
伊丹さんの回は、1997年)を演出されたのが
最後のテレビドラマのお仕事だったようです。

人生のにこごりのようなもの、といって映画作りを
はじめた伊丹さんは、俳優出身の監督らしく、
俳優を尊重し、演じる側の気持ちがわかる監督だったと、
津川雅彦さんはじめ、伊丹映画に登場した役者さんたちが
語っています。
現場で怒鳴ったり、役者を緊張させたりしない、
優しい監督だったそうです。

伊丹さん自身、『ヨーロッパ退屈日記』などで
監督のあるべき姿について縷々語られていますから、
そうとうに気を使い、娯楽作品を作るための環境に
心を砕かれていたようです。
(ほぼ日・りか)

参考:伊丹十三記念館ホームページ
   『伊丹十三記念館 ガイドブック』
   DVD『13の顔を持つ男』
   『伊丹十三の本』『伊丹十三の映画』ほか。



2010-01-31-SUN