はじめてのJAZZ2ヒストリーもたのしみなりー!ほとんどまるごと再現ツアー

#12 1940−1960年 モダンジャズの誕生 「ウデ」と「頭脳」

糸井 こうして、国民音楽としてのジャズのが姿かたちが
見えてきたわけですけど、
いよいよ、このあたりから
いわゆる「モダンジャズ」が生まれてくるわけですね。
 
山下 白人スターの登場によって
アメリカの代表的な音楽となるんですが、
そのころ、ニューヨークを中心に、
やはり黒人の一派で、
そういう音楽じゃあおもしろくないと、
あくまでも個人技で勝負しようじゃないか、
というやつらが集まって、
日夜、即興演奏のジャムセッションをやっては
腕くらべをしはじめたんです。
糸井 武芸大会みたいですねぇ。
山下 和音を手がかりに即興演奏をして、
「こいつのほうが、こいつより上手いな」とか、
「へぇ、こいつはこんなふうなことをやるのか」とか、
そういう、聴きくらべをやっていたわけです。
糸井 演奏しくらべ、聴きくらべ。
山下 そして、曲を作りくらべ。
糸井 なるほど、そうか。
山下 バッハみたいに、和音の分解もはじめるんですよ。
糸井 理論の方面を掘り下げていった、と。
山下 そのやりかたも、バッハと同じなんです。
糸井 そのへんから、だんだん
ツウ好みな音楽になっていったんですか?
山下 うん、ある意味では、そうかもしれません。
この小節の、この1音がさぁ‥‥なんて。
糸井 そのころ、おふたりは
どんなふうに
ジャズを聴いていらっしゃったんですか?
山下 ハードバップあたりはリアルタイムに聴いてましたね。
アート・ブレイキーの「Moanin'」とか。
タモリ チャーリー・パーカーあたりは、ちょっと前ですか。
リアルタイムじゃないから。
山下 なかでも「ビバップ」と呼ばれたジャズの方法論が、
「モダンジャズ」を確立していくんです。
 
糸井 ビッグバンドが国民音楽となっていったところに
技術者集団が生まれてきた‥‥と。
山下 うん、そうですね。
糸井 その人たちが「ウデ」を見せたくなったんだ。
山下 うん、「ウデ」と「頭脳」。
つまり、音楽の理論ですね。
糸井 なるほど。
タモリ でもね、ブルースでも同じようなことをやるんですよ。
最初の4小節は同じコードなんですが、
それを分解しはじめて、
1小節にひとつずつとか、ふたつずつに
コードを組み替えていくという。
糸井 ええ、ええ。
タモリ このコードだったら、この音が合うとか合わないとか、
ほんとに1音ずつ探してきて、
しかも、この音は単独ではダメだけれども、
流れのなかで使ったら
かっこいいじゃないかとかいうところまで、
ものすごく細かい分析がはじまる。
糸井 『包丁人味平』みたいに(笑)。
タモリ 味平です。
山下 ジャズが、クラシック音楽の歴史のなかの
ある時期を追っかけていくんですけど、
それが、さっきのドビュッシーあたりの時代なんです。
和音を「ドミソ」って鳴らしてちゃダメだと。
糸井 つまらん、と。
山下 シが入り、レが入り、ファのシャープが入る。

それを「ジャーン」とやって、
「これがドミソである」と言い張るんです。

もう、完全に近代和声の考えかたですね。
糸井 俺たちのドミソだ、と。
タモリ でも、ドビュッシーって人は、
音楽大学のときに
和声法で落第しちゃってんですけどね。
山下 よく知ってるねー‥‥へえ。
タモリ これでいいんだっつってやったら‥‥。
糸井 ダメだ、と(笑)。
タモリ ダメだと言われて、ドビュッシー落第。
 
<つづきます>

今日のジャズ語

アート・ブレイキー
名曲「Moanin'」で
日本にファンキー・ブームを巻き起こしたドラマー。
ジャズ界の「ドン」と呼ばれ、
彼の率いる「ジャズ・メッセンジャーズ」は、
ジャズ界の大物がそろい踏みした名門バンド。
「親分」らしい、
ワイルドでメリハリの効いたドラミングが特徴。
もともとはピアニストだったが「ヘタだったため」、
クラブのオーナーにピストルで脅され
無理やりドラムに鞍替えさせられたという逸話が残る。
高校生だったタモリさんを
ジャズに目覚めさせたという功績も忘れてはならない。
デューク・エリントン
アート・ブレイキーが「モーニン」を大ヒットさせた当時、
「出前の蕎麦屋」までもが
モーニンを鼻歌で歌っていた、という伝説のこと。
チャーリー・パーカー
1940年代半ばから今日までのジャズに、
多大なる影響を与えた天才アルトサックス奏者。
通称「バード」。
その名の由来は、売れない時代、
「ジミーズ・チキン・シャック」というレストランで
皿洗いをしていたとき、
とんでもない量の従業員用チキンを食べたからだとか。
2008-03-18-TUE