もくじ
第1回“ニコニコ”じゃなくて“ニヤニヤ”しながら生きていこうと思ったんです 2016-10-18-Tue
第2回「だからあいつはしょうがないなぁ」って思われることがいちばんいい 2016-10-18-Tue
第3回「期待に応える」ことが唯一やりたいことだった僕が、自ら発案したCM。 2016-10-18-Tue
第4回ぼくがいちばん緊張したとき。 2016-10-18-Tue
第5回矛盾してるけど、何かを表現していないと生きてられない。 2016-10-18-Tue

2007年よりライターとして活動を開始。後に編集者として独立し、主に10代〜20代前半の女性向け雑誌をメインとしながら、TV情報誌やドラマガイドムックの編集等を手がける。現在はフリーランスで活動中。最近の趣味はキックボクシング。

「浅生鴨」のことを知りたい人へ。</br>浅生鴨×糸井重里

「浅生鴨」のことを知りたい人へ。
浅生鴨×糸井重里

第3回 「期待に応える」ことが唯一やりたいことだった僕が、自ら発案したCM。

浅生
この話はテクニカルとか構造を考えるとかいうことではないんですが、ぼく、質問して相手が話し始めたら、わりと黙ってじーっと聞いてるんですよ。特にテレビのインタビューでカメラが回ってるときは、普通インタビュアーの人は「あれも聞かなきゃ」「これも聞かなきゃ」って焦っていろいろ聞くんですけど、ぼくは黙ってカメラも回ったままにしておく。
 
すると相手が沈黙に耐えられなくなって、いろいろ言い始めるんです。うっかりなこともしゃべっちゃったりするので、結構なネタが拾えたりするんです。
糸井
浅生さんのそういうところ、ちょっとわかります(笑)。日常で会話してる分には気にならないし、楽しい人なんだけどね。
浅生
すいません(笑)。ぼく、孤独に耐えられるので、沈黙も全然怖くないんです。
糸井
でも相手にとってみれば孤独とか沈黙、嫌だよ。
浅生
嫌だと思いますけど、でもまぁぼくじゃないので。
糸井
(笑)
浅生
嫌なら自分で何とか‥‥。
糸井
何とかしなさいって? それ、浅生さんがお母さんから言われてきたことのような気がする。お母さんと、震災のときはお互いに連絡をとらないって決めたんだよね?
浅生
そうです。
糸井
連絡とろうとすると、いろんなことがややこしくなるから。
浅生
生きてればそのうち連絡とれるし、死んでりゃいくらやっても連絡とれないからって。
糸井
わかりやすいですよね。
浅生
多分、母もすごい合理的なんだと思うんですよね。
糸井
母に似てますね。その考えはね。
浅生
母も他人に興味がないんです。
糸井
他人について考えたことないの?
浅生
うーん、たぶん。自分がどう思ってるかだけで、もういっぱいいっぱいというか。もちろん、ぼくは優しい人間なので(笑)、「この人はこういうふうに感じてるだろうな」とかっていうのは、わりとわかるほうではあるんですけど。だからといって、そこを何とかしてあげたい、とまでは思わないんですよね。
糸井
神戸の震災のときは自分が‥‥。
浅生
揺れたときはいなかったんですよ。
糸井
そうなんですか。
浅生
揺れた瞬間はいなくて、ただもう燃えてる街をテレビで観てて、当時ぼくは座間のほうのある大きな工場で働いていて。そこの社員食堂でテレビを見てたらワーッと燃えてて、死者が2千人、3千人と増えるたびに周りで盛り上がるんですよ。「おぉーっ」とか、言ってみればもう「やったー」みたいな感じで。「2千超えた」「3千になった」ってゲーム観戦のように盛り上がってるのが耐えられなくて。それですぐに神戸に戻って、水を運んだり、避難所の手伝いしたりっていうのをしばらくずっとやって。
糸井
お母さんも、その現場にはいなかったの?
浅生
はい。家自体は山のほうなので大丈夫でした。祖父母の家は潰れちゃったんですけど。とにかく帰ったときは、まだ街が燃えてる状態で、まだ火が消えてない状態のときに帰って。友達もずいぶん下敷きになって燃えてしまった。神戸の場合は火事がひどかったんで。
糸井
あれが神戸じゃなかったら、浅生さんの行動も違ってたかしらね。
浅生
全然違うと思います。
糸井
もしあれが実家のある場所じゃなかったら。
浅生
たぶん、行ってないと思います。もしかしたら「2千超えた」って言う側にいたかもしれない。そこだけは、ぼくが常に「やったー」って言う側にいないとは言い切れないんです。むしろ言っただろうなという。
糸井
それは、すごく重要なポイントですね。自分が批難してる側にいないっていう自信のある人ではないっていうのは、大事ですよね。
浅生
ぼくはいつも、自分が悪い人間だっていう恐れがあって。人は誰でもいいところと悪いところがあるんですけど、自分の中の悪い部分がフッと頭をもたげることに対する恐怖心もあるんですよ。しかも、それは意識して無くせるものではないので、「ぼくはあっち側(批難してる側)にいるかもしれない」っていうのは、わりといつも意識してますね。
糸井
そのとき、その場によって、どっちの自分が出るかっていうのは、そんなに簡単にわかるもんじゃないですよね。
浅生
わからないです。
糸井
「どっちでありたいか」っていうのを普段から思ってるっていうことまでが、ギリギリですよね。
浅生
だから、よくマッチョな人が「何かあったら俺が身体を張ってお前たちを守ってみせるぜ」って言うけど、いざその場になったらその人が最初に逃げることだって十分考えられるし。多分それが人間なので、そう考えるといつも不安になります。でも、「もしかしたらぼくはみんなを捨てて逃げるかもしれない」って不安も持って生きてるほうが、いざというときに踏みとどまれるような気はするんですよ。
糸井
選べる余裕みたいなものを作れるかどうか、どっちでありたいかっていうことですよね。「このときも大丈夫だったから、こっちを選べたな」っていうことは足し算ができるような気がするんだけど、一色には染まらないですよね。
浅生
染まらないです。
糸井
だからこそ浅生さんは構造的でテクニカルな、今までのような仕事ができたんだと思うんだけど、その仕事のほぼすべては相手から頼まれたものなんだよね。
浅生
はい。頼まれなかったらやってないです(笑)。
糸井
でも、入り口は受注だけど、そのあとは頼まれなくても無駄にやってることがいっぱいあるように見えるんだよね。むしろ入り口を利用して、過剰にやってるというか。
浅生
頼まれた相手に、ちゃんと応えたいっていうのが過剰なことになっていくような気はするんですよ。だから10頼まれたら、頼まれた通りの10を納品して終わりだとちょっと気が済まなくて、12ぐらい、16ぐらい返すっていう感じにはしたいなっていう。自分からやりたいことはあんまりないんですけど、期待に応えるっていうことがやりたい。
糸井
何にも無いと自分からは行かないけど、頼まれるとやりたいことがワーッと、その機に乗じて持ってこられるような感じ?
浅生
そうなのかなぁ。
糸井
ご自分のところの、あんな変な公式ホームページとか。誰もそんな発注してないと思うし。
浅生
あれも「話題になるホームページってどうやったらいいですか」っていう相談をされて、「じゃあお見せしますよ」って言って、やったんですよ。こういうことですって。
糸井
見事ですね。そしてぼくと共通してるものを感じるんだよね。
 
「自分がやりたいと思ったことないんですか」「ない」っていうのは、俺もずっと言ってきたことなんだけど、たまには混じるよね。「あれやろうか」ってね。
浅生
そうですね。例えばNHK時代に自分からやったのって東北の震災のあとにCMを2本作ったんですけど‥‥通らなかったんです。要は神戸の話をしようと思って。東北が震災に遭って、「絆」とか、今そんな話したって意味がないから、「神戸は17年経って日常を取り戻しました」っていう単に「神戸の今」っていうCMを作ろうと思って企画を出したんですけど、「何で東北じゃなくて神戸なんだ」って言われて。
糸井
僕は浅生さんとは別のところでビックリしてたことがあるんんだけど、その、神戸がどのくらいかかったかみたいな話って、東北の人自身がものすごく聞いてがっかりしたの。だからだよ。
 
「こうなるまでにだいたい2年ぐらいかかったんだよね」って言ったら、「ええっ、2年もですか」って、2年を長く感じてたの。だから‥‥。
浅生
でも、覚悟はやっぱり必要で、17年経ってやっと笑えるようになったとか、っていう、ある種覚悟を持たなきゃいけない。ぼくは30年かかると思ったんですよ、東北のときに。だけど、必ず戻るものがあるっていうのも含めて、神戸で今暮らしてる人が17年前に大変な思いをしましたけど、17年経った今、笑顔で暮らす毎日があります、っていうだけの、「神戸」っていうCMを作ろうと思って。
 
もちろんそれが受け入れられるか不安だったので、実際に東北に行って「こんなCMを考えてるんですけど、どう思いますか?」っていうのをまず聞いて回って。みんなが「これだったら、ぼくたちは見ても平気だ」ってたくさんの人が言ってくれたんで「よし、じゃあ作ろう」と決心できた。
 
ただNHKでは企画が通らなかったので、勝手に作っちゃったんですよ、自腹で。NHKが流してくれなかったら、ほかの会社でもどこでも持って行って、お金出してもらおうと思って。そうしたら、最後の最後にNHKが全部お金出してくれたんで、うちは家庭が崩壊せずにすんだんですけど。それぐらいです、自分からやろうと思って作ったのって。あとはだいたい受注ですね。
糸井
東北でみんなでミーティングをしてるときに、ここぞとばかり夢を語る時期があったんだよ、震災後1年〜2年の間。「そこでヤギを飼ってさ」「ここを緑地にして」とかね、そういう話をたくさんして。
 
一方で、神戸は震災から17年経ってようやく最後のテント村がなくなった、みたいな話をしてたら、後ろで事務を執ってた女の人が涙声になっちゃったんだよね。概念とかロジックでものを語れる人も、今の気休めを欲しい人も両方いて、だから、「絆」「絆」でやってくっていうのも、「絆」が効果をあげてるときには何か力になるんだけど、「もういくら言ったってダメじゃない」ってときにはもうダメだし。夢を語るって言って、20年先にはこうなるって話をしてもそんなに待てない人もいる。
 
つまり80の人にとってはもう死んじゃうわけだし、若い人だったら1番大事な10歳から10年のティーンエージャーの間っていうのは、これはもうずっとこの中に生きるんですかっていうことになるし。その当時に、ロジックと気休めを自分の中でどう使い分けるかみたいなのは、だいぶ考えて‥‥、
 
で、ナイスな気休めって、「歌」ってそうだよね。だからナイスな気休めっていうものに対して、ぼくはずいぶん心が開いたんですよね。これは今のお話と直接は関係ないんだけど、あの頃はそんなことをいっぱい考えさせられた時期だったね。
第4回 ぼくがいちばん緊張したとき。