もくじ
第1回隠しごとが、めんどくさい理由。 2016-10-18-Tue
第2回生きてるうちは、ニヤニヤと。 2016-10-18-Tue
第3回自分で決断する勇気。 2016-10-18-Tue
第4回ぼくは、表現せずにはいられない。 2016-10-18-Tue

1989年、宮崎県生まれ。
WEBメディアで編集の仕事をしています。

めんどうだけど、今日も表現しよう。

めんどうだけど、今日も表現しよう。

第2回 生きてるうちは、ニヤニヤと。

糸井
人生を変えるような経験、もう何万回もしゃべってる?
浅生
そうですね。
糸井
大事件が浅生さんの身の上に起こって‥‥。
浅生
31歳の頃にオートバイに乗っていて
大型の車とぶつかって、
すごく危険な状態で病院に運び込まれる大事故。
1年ぐらい入院して、しばらくずっと車椅子生活でした。
しばらくの間は意識不明で、
まったく意思の疎通が取れない状態だったんです。
糸井
その状態が何日ぐらい続いたの?
浅生
正確にはわからないんですけど、多分10日ぐらい。
妻の日記とか見るとわかると思うんですけど‥‥。
糸井
大変だったね。
浅生
病院に運ばれて手術を受けて、
その日の夜がヤマなんですよね。
妻はちょうど海外出張で連絡をとる術もなくて
ここで死んだら、
妻にものすごく怒られるって思ったんですよ。
もう死ぬのはわかってたので、一言ごめんって伝えたら
そんなに怒られずにすむだろうって。
 
結局、海外にいる妻に連絡を取るのに1日かかり、
日本に戻ってくるのにもさらに中1日、
結局病室で会うまでに2日ぐらいかかっちゃったんです。
だから、その間に峠を越しちゃった。

糸井
謝らなきゃならないから?
浅生
もう、とにかく謝るまでは死ねないと思って。
糸井
ちょっとした意識はあるんだ。
浅生
病室に来た妻に、ごめんって謝ってから
意識がなくなったんですよ。
糸井
愛の物語と言えなくもないですよね。
浅生
もう怒られたくない一心でした。
 
入院していた病室に僕と同じような事故にあった人がいて、
年齢も同じぐらいだったんです。
その人は、事故の相手が大きな会社の社長さんかなんかで
初期の段階から弁護士が来て「3億は堅いですよ」
みたいな話をしていて。
 
僕は無保険の車だったので、びた一文出ない状態で。
とにかく早く社会復帰して働かなきゃいけないので
一生懸命リハビリしたんです。
 
同じ病室だった人は、治れば治るほど慰謝料が減るので
そんなにリハビリを頑張らなかったんですよ。
結果どうなったかっていうと、
僕は歩けるようになったんですけど
その人はたぶん、まだちゃんと歩けない状態で。
糸井
ものすごい経験ですね。

浅生
でも、彼の気持ちもすごくわかりますね。
もし逆の立場だったら、
ほんとに1秒でもリハビリ遅らせて
同じことをやっただろうな、って思うんですよね。
糸井
それはそうだね。
浅生
一瞬ですけど、身体で体験して
「死ぬとは何か」をちょっと理解したんですよ。
よく死ぬのが怖くないから、
俺は何でもできるみたいに言う人がいるけど
それは嘘ですよ。
僕も死ぬことはそんなに怖くないですけど、
死ぬのはやっぱり嫌ですから。
怖いのと嫌なのって別なんじゃないかな。
糸井
きっと、より死ぬことが嫌になるでしょうね。
浅生
より嫌になるというよりも
なんか、すごく淋しい。
糸井
浅生さんは若くして年寄りの心をわかったね。
ぼくは年を取るごとに、死ぬことの怖さが失われてきたの。
映画の最後に、自分が「お父さん」とか呼ばれながら
死ぬシーンをもう想像してる。
何か一言いいたいじゃない。
それをしょっちゅう更新してます(笑)。
 
結構長いこと、「あー、おもしろかった」って言うのが
理想だなって思ってたの。
嘘でもいいから、そう言ってから死のうと思ってたけど
この頃は違うんです。
 
さぁ、命尽きるっていう最期に、
「人間は死ぬ」って言うって決めてる。

浅生
そこで真理を言うんですね。
糸井
人間は死ぬもんだから
それを一応みなさまへの最期の言葉にかえさせて
いただきたいと思いますよ。
浅生さんは、過去にそういう経験をして、
死ぬことがリアルになったときに
生きるってことを考える機会がきっと多くなりましたよね。
浅生
そうですね。だからといって
何か世の中に遺したいって気は毛頭なくて。
僕は死ぬということが、すごく淋しいことだと体験したので
生きてる間は「楽しくしよう」みたいな。
日頃からニコニコするのは上手じゃないので、
ニヤニヤして生きていこうみたいな感じです。
糸井
そのまとめ方って、なんか展開がなくていいね(笑)。
ニヤニヤで全部まとめちゃうもんね。
浅生
そうですね。ニヤニヤして生きていきたい。
糸井
カブリオレとか買うじゃないですか、
そういう時もニヤニヤですか。
浅生
ニヤニヤですね。自分自身が楽しむだけじゃなくて、
車を見た人たちが派手な車だとか、
いろんなことを言うじゃないですか。
そういう周りの反応も想像して楽しめるというか。

糸井
車の屋根がないだけで
ちょっとおもちゃっぽくなりますよね。
 
味の素スタジアムから東京まで、
カブリオレに乗せてもらったことがありましたね。
普段乗ってる車と同じ速度でも、
スピードが出てるような気がして
ちょっと怖いというか、
バイクに乗ってる感覚に近かったですね。
そういう緊張感があるときって、ニヤニヤしがちですよね。
浅生
先生に怒られてるときとか、ニヤニヤしちゃいますね。
糸井
そういうことで怒られますよね。
神戸でニヤニヤして生まれて‥‥
お母さんとは、震災のときに
お互いに連絡とらないことって決めたんだよね。
浅生
そうですね、生きていればそのうち連絡とれるし、
死んでりゃどうやっても連絡とれないから
まぁ、慌てないことですかね。
糸井
わかりやすいですよね。
浅生
母もすごく合理的な考えだと思うんですよね。
糸井
そういう考え方も親子で似てますね。
浅生
母も他人に興味がないんです。
自分のことで、もういっぱいいっぱいというか。
もちろん、相手の気持ちは考えますけど、
僕は優しい人間なので
「この人はこういうふうに感じてるだろうな」って
わりとわかるほうではあるんです。
だからといって、そこを何とかしてあげたいとまでは
思わないんですよね。

糸井
でも、女川の手伝いとか
そういうのはするじゃないですか。
浅生
そうですね。僕が楽しいからやってるのであって
嫌なら行かないですから。
糸井
きっかけは神戸で震災を経験をしたからですか。
浅生
震災のとき、神戸にいなかったんですよ。
当時、座間(神奈川県・座間市)の方にある
大きな工場みたいな所で働いていて。
そこの社員食堂のテレビで
神戸の街が燃えているのを観てたんです。
 
死者が2千人、3千人って増えるたびに周りが
「おぉーっ!」とか、
言ってみればもう「やったー!」みたいな感じで
盛り上がるんですよ。
まるでゲームを観ているかのように
盛り上がってることがちょっと耐えられなくて。
それで神戸にすぐ戻って、水を運んだり
避難所の手伝いをしたりしてました。
糸井
お母さんは、その現場にはいなかったの?
浅生
実家は大丈夫でした。祖父母の家は潰れちゃったんです。
神戸に戻ったときは、まだ街が大変な状態のときで。
糸井
もし、被害のあった場所が神戸じゃなかったら
また違ってたかもしれない。
浅生
多分、僕は現地に行ってないと思います。
もしかしたら、あのときテレビの画面を観ながら
「2千人超えたー」って言う側にいたかもしれない。
そこだけは、常に「やったー」って言う側にいないとは
言い切れないので、むしろ言っただろうなって思います。
糸井
それは、すごく重要なポイントですね。
自分が批難してる側にいないって
自信のある人ではないって大事なことですよね。
浅生
僕、いつも自分が悪い人間だっていうおそれがあるんです。
人は誰にでも良いところと、悪いところがある。
自分の中の悪い部分がフッと頭をもたげることに対する
恐怖心もすごくあるんですよ。
 
だけど、それをなくすことができないので、
僕はあっち側にいるかもしれない、っていうのは
いつも割と意識してますね。

糸井
どっちの自分が出るかっていうのは、
そんなに簡単にわかるもんじゃないですよね。
浅生
わからないです。
糸井
「どっちでありたいか」っていうのを
普段から意識してるってことが、ギリギリですよね。
浅生
例えば、マッチョな人が
「何かあったら身体を張って、みんなを守ってみせるぜ」
って言ったとしても、いざその場になったら
その人が最初に逃げることだって十分考えられるし。
 
それが人間なので自分も同じように
「みんなを捨てて逃げるかもしれない」って
不安を持って生きてるほうが、
いざというときに踏みとどまれるような気はするんですよ。
糸井
自分がどっちでありたいか、
選べる余裕みたいなものを作れるかどうか。
このときも大丈夫だったから、こっちを選べたなってことは
足し算ができるような気がするんだけど、
一色には染まらないですよね。
第3回 自分で決断する勇気。