木村二郎さんと三好悦子さんがはじめた、ギャラリートラックス。
この地で、ギャラリーをはじめようと考えたのは、悦子さん。
物件探しをするなかで、お寺の境内にある元・保育園だった
この場所に出会い、二郎さんがひと目みて気に入り、
自らの手でつくりあげ、1993年7月にオープンした。
オープン後も、展示ごとに
空間を大胆につくり変え、訪れるひとを驚かせ、
また、ひとつとして同じもののない、
古材を生かした家具を、次々と生みだしてゆき、
益子のスターネットの立ち上げをはじめ、
さまざまな店舗設計や空間デザインを手がけて、
2004年、56歳の若さで他界されるまで、
常に創作しつづけていた木村二郎さん。
その姿をずっと見続けてきた三好悦子さんに、
お話を聞かせていただきました。
- ――
- 木村二郎さん、どんな方だったんですか?
- 悦子
- すごくシャイで、口数の少ない人だったから、
みんな慕っていたけど、たくさん話した人は、
実は、そんなに多くないんです。
展示のオープニングパーティのときなんかも、
気づいたら、いなくなっていて、
「二郎さん、また帰ったわあ」って言われてました(笑)
それで終わってから、うちに帰ると、
二郎さんがひとりでなにかをつくっていたりして。
そういうことがよくありました。
- ――
- もともと、大阪にいらしたんですよね?
- 悦子
- そうなんです。
当時、私が働いていたデザイン事務所と、
二郎さんがお兄さんとやっていた
インテリア事務所が、同じビルに入っていて。
それで、みんなでご飯を食べたり、
ちょうどロキシー・ミュージックが来日して、
一緒に見にいったり、
ふたりとも骨董が好きで、音楽や映画の好みが
近かったこともあって、仲良くなって。
二郎さんみたいな人はいないよねって
みんな言っていたけれど、
大阪の男って、もっとベタな人が多いから、
最初、わたしは宇宙人かと思ったの(笑)
- ――
- これまで会ったことのないタイプだった…。
- 悦子
- 本当にそうでした。
大阪にいたときの二郎さんは、
売れっ子のインテリアデザイナーで、
ちょうどバブルの頃だったから、
大きな予算のもと、オシャレでかっこいいものを
いっぱいつくってました。
ただ、かっこいいんだけど、
都会のコンクリートジャングルのなかで、
バブリーなものを作っているなあ、という印象で、
当時は、彼がつくっているものに、
あまり関心を持っていなかったんです。
- ――
- そうだったんですか。
- 悦子
- その頃のわたしは、「土に還りたい」って思いが
すごく強くて…。家の庭も石畳だったし、
アスファルトの上を歩いて、電車に乗って、
ああ、今日も一日、土のうえを歩いてないなあ、
と思いながら、暮らしていたから。
それで自然食品店でみつけた、自給自足の本に
ひかれたり、田舎暮らしに憧れたりして。
当時、陶芸を習っていた先生のセカンドハウスが、
大阪の山のなかにあったので、
そこを貸してもらって、住んでみたりしているうちに、
二郎さんのほうがその生活にハマってしまって…。
- ――
- 悦子さん以上に?
- 悦子
- そうなんです。
田舎暮らしも、ギャラリーをつくろうというのも、
言い出すのは、いつもわたしなんですけど、
それを具現化していくのは、二郎さんでした。
しかも、わたしの予想をはるかに超えていくんです。
ギャラリーも、最初はあまり乗り気でなかったのに、
この場所に出会ったら、嬉々としてつくり始めて。
本当は、縁側でぼーっとしてたかったのになあ、
なんて言いながら(笑)
大阪では、図面をひくのが仕事で、自分の手で
つくることはなかったのに、八ヶ岳に来てから、
どんどんいろんなものをつくるようになって…。
- ――
- 大阪でのお仕事とは、また違うものが生まれ始めたんですね。
- 悦子
- そう、全然違うものをいきなりつくりはじめて。
- ――
- いまもファンがたくさんいらっしゃる、
二郎さんの古材をつかった家具なんかも…。
- 悦子
- そうですね。古材を使い始めたのも、
ギャラリーのオープンにむけて改装を進めているときに、
たまたま、近所で古民家が解体されることになって、
柱とか梁を使いたかったら、持って行けって。
それで、解体現場で、バリバリバリ…って
取り出してもらって。
最初につくったのが、ガラス板の下に、柱を渡した
このテーブルです。
(つづきます)