- ――
- お話を聞いていると、二郎さんのまなざしを借りて、
世界を見ることができたら、と思ってしまいます。
- 悦子
- ほんとうに、いつもなにかおもしろいことをやってました。
うちに帰ると、焚き火をしていたり、縄文土器のかけらを
掘り出してきて、すごいの見つけた!って言っていたり(笑)
それが、911のときに、世の中ひどいことになっている、
人類はこのままじゃダメだ、と気づいてしまったって。
それまでは、政治や社会の問題にのめり込むことはなくて、
できることなら、つくることだけを考えていたい、
という人だったんだけど、それからは、ずっとBBCばかり
見つづけていて。
- ――
- よっぽどショックだったんですね。
- 悦子
- 社会も人類も憂いて、亡くなる1、2年前くらいは
寡黙な重いひとになってしまって…。
どうしたらいいんだろう、という思いを、自分の内側に
溜めこんでしまっていたんだと思うんですけど。
人が多すぎるから、お金もいるし、どんどん複雑にして
お金を生み出す、世の中になってしまっている。
それを単純にするのは、本当に難しいって。
地球の行く末や未来のようなものを、いつも考えていて、
「遠くに灯りが見えるんだけど、消えそうなんだよね」って
よく言っていました。
- ――
- まさに今の時代の感じですよね。
- 悦子
- そうなの。
- ――
- 灯りが見えているうちは、まだかろうじて大丈夫だけれど、
それを絶やさないようにしていかないと…。
- 悦子
- それで、二郎さんは自分の思いとして、トラックスに
”HOPE”を描いたんです。
わたしが、「地球に”HOPE”はある?」って聞いたら、
「いやあ、消えそうだけれど、まだついてるよ」って。
- ――
- 病気のことがわかったのは、突然だったんですか?
- 悦子
- その頃、カンボジアに映像を撮りにいっていて、
帰国後に、病院についてきてって言うから、
一緒に行ったら、大学病院を紹介されて、
検査をしたら、すい臓がんだということがわかって。
でも、手術はしないということで、
自宅で、訪問看護の治療を続けながら、
親しい友人にだけ伝えて。
ガンが見つかって、2ヶ月でした。
そのときの二郎さんを見ていて、
死にざまって、生きざまなんだな、と感じたんです。
わたしは、治そうという気持ちでいてほしかったんだけど、
もう、やることは全部やっちゃったから、って。
八ヶ岳に来てからの10年間で、あれだけつくって、
ありとあらゆることをやり尽くした。
ほんとうに凝縮した10年間だったんだと思います。
- ――
- もし、二郎さんがまだお元気でいらしたら、今のこの状況を
どう思われたんだろうなあ、と思ってしまいます。
- 悦子
- 江戸時代とかだったら、長寿で、ずっと、
ものをつくり続けていたかもしれないけれど、
二郎さんにとっては、もうあの時点で、
世の中が、ギリギリだったんだろうなあって。
わたしが思っていた以上に、
ものすごく繊細で、世の中のことを考えだすと、
敏感に反応してしまう人だったから。
- ――
- ただ、トラックスがあることが、
二郎さんを感じられる場所がこうしてあることが、
みんなにとって、大きな支えになっている
ようにも感じます。
- 悦子
- いまでも、ここを大事に思ってくれている人がたくさんいて、
そのおかげで続けることができていて。
お金に変えられない豊かさがこうしてあることは、
本当にみんなのおかげだなあって。
この場所をもとに「地縁」でひとが集まっているって、
よく言うんですけど、別の意味のDNAでつながっている関係。
それは「血縁」の血よりも、よっぽど濃いよねって。
ギャラリーをやっていると、世代を超えて、
いろんな人と出会えて、それこそ、若いころから知っている
アーティストが子供をつれて遊びに来てくれたり、
気づいたら、たくさん子供や孫がいるようなものだから(笑)
二郎さんが亡くなる一年前くらいから、
展示をやらなくなって、ひたすら映像ばかり流していたので、
いつ来ても真っ暗だし、これじゃあ、
お客さんが来なくなっちゃうよ、って言ったんです。
そうしたら、二郎さんが…
「いいんだよ、えっちゃん、八ヶ岳にトラックスがあるだけで」
その言葉が、今もわたしのなかにずっとあるんです。
*
ギャラリートラックス
〒408-0017 山梨県北杜市高根町五町田1245
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~trax/main/top.html
OPEN / 金・土・日・月曜日 12〜5pm
※ランチは事前に予約を