- ――
- トラックスは、二郎さんの作品を展示する
ギャラリーとして始まったんですか?
- 悦子
- 八ヶ岳に来て、二郎さんがつくるものを見ていて、
それがすばらしかったから、二郎さんがつくったものを
並べてギャラリーをやるのはどうだろう、と
思ってはじめたんですけど、実際に、二郎さんの個展を
やったのは、何年も経ってからでした。
最初は、知り合いの陶芸家が、地元の作家を
紹介してくれたり、友人のアーティスト角田純さんが
現代美術の作家や写真家に声をかけてくれて、
始まったんです。
ギャラリーの運営は、主にわたしがやっていて、
二郎さんは、2週間ごとの展示のたびに、
その作品にあわせた展示台や装置をつくりだして、
しつらえや照明を含めて、
空間まるごとつくり変えてしまうんです。
だから、同じ場所なのに、ドアを開けるたびに、
まったく違うところになっていて、
みんな、すごく驚いていました(笑)
しかも、作品の力を120%くらいアップさせる
展示をするから、作家のひとたちもよろこんでくれて、
いつもみんなに新鮮な驚きを与える人でした。
- ――
- それは、見てみたかったです。
- 悦子
- そのうちに、二郎さんに店舗設計の相談が入ったり、
こういうテーブルを家にもつくってほしい、という
依頼がぽつぽつ入るようになって。
当時は、ショップに廃材を使うという発想自体が
なかったから、すごく新鮮にうつったみたいで、
クリエーターやファッション関係の人たちが、
こぞってやってくるようになったんです。
でも、二郎さんは、トラックスをどういう場所にしたいか、
尋ねられても、ぼくの意思はあまり重要じゃなくて、
トラックスがひとり歩きしていくんですよ、と言って、
あくまで、自分はギャラリーのサポーターだと思っていて、
オーナーと呼ばれるのをすごく嫌がっていました。
いまでも、トラックスに来て、ギャラリーの展示でなく、
二郎さんのつくったものをしげしげと見ている人も
けっこういて、木工でもやられているんですか、と聞くと、
いえ、建築家です、みたいなことがよくあって(笑)
- ――
- 二郎さんの影響を受けて、作り手になった人が、
いろんなところにいらっしゃるんですね。
- 悦子
- しかも、同じことをやるのが嫌いな人だったから、
次はなにをするんだろうって、みんな楽しみにしていました。
古材を使った家具をつくっていたら、廃材ブームが来て、
二郎さんはそれを嫌がって、今度は、ホームセンターで買える
ものだけでつくる、と言い出して、ベニヤ板を使い始めたり、
そのあとは、映像を撮りだしたり。
- ――
- 興味が移り変わっていくきっかけは、何かあるんですか?
- 悦子
- やっぱり自然のなかで、インスパイア―されて
いたんじゃないかな。
椅子特集の本が出ていたよ、買ってこようか?
と聞いても、あー、見ない見ない、
そんなの見ても影響受けるだけだから、と言って、
森の中に入っていってしまうんです。
- ――
- (笑)
- 悦子
- 八ヶ岳に来て、ほんとうに彼は変わったんです。
縁あって、こちらに移ってきて、
最初に住んだのは、築130年のくらいの農家でした。
それからトラックスを始めるにあたって、
住みだして、その後、家のうしろに
草原が広がっている、すごいロケーションのところに
住まい兼アトリエをもったこともあって、
自然のまっただなかで、どんどん創作意欲が
広がっていったんでしょうね。
朝でかけていって、お昼ごはんを食べに戻ってきて、
夕方、暗くなるまで帰ってこないので、
なにをしているのか、と思っていたら、
ある日、森のなかに案内してくれて、
ずっとひとりで、自然にあるものを材料に、
オブジェのようなものをつくっていたことがわかって、
驚いたり…。そういう毎日の連続でした。
ただ、ギャラリーをやっていると、
どこか文化的なものに触れたい気持ちもあるものだから、
映画やコンサートに行けないなんて、
と思うこともあったんですけど。
あるとき、わたしがリゾートに行きたいって言ったら、
二郎さんが、こんないいところに住んでいて、
どこに行きたいの?!って(笑)
- ――
- いまここにある暮らしこそが、なによりも楽しいんだ、と。
- 悦子
- ほんとうに、日常のなかに非日常を見つけだす天才でした。
えっちゃん、ちょっと2階にあがってきて、と言われて、
階段をのぼっていくと、部屋の窓いちめんに、
ちいさな灯りがともっていて、えーーー、ここはどこ?!
なんてこともありました。
(つづきます)