短歌を最後に読んだのはいつだか覚えていますか?
五・七・五・七・七の三十一文字(みそひともじ)で短歌は構成されています。
私は受験勉強が終わって以来、すっかり短歌の存在を忘れていました。
普段暮らしていて意識しなければなかなか短歌に触れる機会はありません。
そんな私に短歌を思い出させてくれたのはTwitterでした。
タイムラインに時折、 #tanka のハッシュタグがついたツイートが流れるようになったのです。
「ああ、こういう表現方法もあるんだな」と思い出し、
その短い言葉で構成された世界に興味を持ち、
そこから自分で作ってみたり、歌集を読んだりするようになりました。
いくつか例を挙げてみましょう。
結びには雨の終わりを迎えてた手紙を書いただけの一日 水無月奈帆
この歌からはとても静かな部屋が思い浮かびます。
雨音と、雲の向こうから届く青い光だけのような部屋で机に向かって手紙を描いているような場面。
ペンを紙に走らせる音と、窓の外から聞こえる雨音。いつしか手元に夢中になって気がつけば雨もやんでいて……とそんな場面を想像しました。
そう言えば、私自身も雨ではないですが、いつのまにか部屋が暗くなっていることに気が付かないほど集中してキーボードを叩いていたことがあったことを思い出しました。顔を上げてみると一気に暗くなっていてすごく驚いた記憶。
「カルピスが薄い」といつも汗拭きつつ父が怒りし山荘の夏 栗木京子 ※1
たぶんお父さんは避暑のために山荘に来て、それでも汗をかくほどに暑く、
すこし苛ついていたのではないでしょうか。そんな時家族にカルピスを差し出されたのでしょう。
そこでこの怒声です。父親のキャラクターや家族との関係性が浮かび上がり、旅先なのにささいな事で不機嫌になってしまう、その人間のリアルさに笑ってしまいます。
自分はこんなこと経験したことがないはずなのにまるで自分に起こった出来事であったように情景が浮かんできました。
私もBBQの焼き加減で怒られたことがあったかも。
「鶏皮焼きすぎだ」。鶏皮はカリカリの方が好きなんだけど。
ここには家族で過ごす夏の普遍性も詠まれているかのようです。
短歌に詠まれているのは誰かの記憶やイメージです。
けれども、それらの言葉は短くすることによって読み手に想像の余地を残し、それはそのまま共感の余地となります。
短歌を読んでいると「そういえば私も……」ということがよく起こります。
※1 栗木京子(2003)『夏のうしろ』短歌研究社
(つづきます)