[糸井]
僕にとって、『YOU』は本番よりも、打ち合わせが大事でした。
打ち合わせは飽きるほどやりましたし、好きだったし、
「本番までにここを全部変えてほしい」
ということも、平気で言ったりしてました。
あの「打ち合わせをしていたとき」が、たぶん、いまの自分をつくったんじゃないかな。
[日比野]
なるほど。
[糸井]
例えば、ゲストに宇宙の先生が来るときがあれば
「宇宙の先生来たる」ということで終わりではないと思うんです。
[日比野]
そうですね。
[糸井]
その人となにをしゃべったら自分がうれしいか、お客さんがうれしいか、その先生自身がうれしいか、製作のNHKがうれしいか、いくつもの方向から出てくるアイデアがありました。
あのね、本番は、もうなるようにしかならないんだよ、そうだよね?
[日比野]
うん(笑)、本番で話を聞きだしたら、そうですね。
僕はとにかく『YOU』でいろんな人と会ったことによってそのあとの活動でも自分の視野が広がったと思います。
社会人としての人との話し方とか、切りだし方とか、間の埋め方とか‥‥あと、気配りのしかたとかも。
[糸井]
はははは。
[日比野]
一般視聴者の意見の引き出し方とかもそうだし、すごく鍛えられましたね。
地方局へも、月に1回のペースで収録に行きました。
地方の文化のおもしろさも、あのとき、『YOU』で知ったんですよ。
行ったことない県に『YOU』ではじめて行く、ということが、多かった。
[糸井]
日比野くんが『YOU』の司会をやったときって、20代?
[日比野]
20代後半、大学院を出たあたりです。
ぼくね、『YOU』を引き受けた瞬間をよく覚えてるんですよ。
そのとき、ニューヨークにいたんです。
[糸井]
うんうん。
[日比野]
2度目に行ったニューヨークでした。
「とにかくニューヨークで勝負してやろう!」
とか思ってました。
バスキアとかキース・ヘリングとかみたいになんとかして、ニューヨークで!
僕はキース・ヘリングと同い年だから、
「クッソー」みたいに思ってたんです。
[糸井]
うん(笑)。
[日比野]
「オレたちの世代で、 あいつらに先に行かれてるじゃん」
「あーあ、ニューヨークに生まれてたらなぁ」
みたいなことになってて。
[糸井]
ははははは。
[日比野]
それでもう「なんでもやってやろう!」
という気分になってたときにNHKの清水さんという方から電話があって、
「『YOU』って番組の司会 やってくれないか?」
と言われました。
オレもう、そのときね、手をおっきく広げて、ニューヨークの空の下で
「やったろう!」
みたいになってたからもちろん「はい、やります!」ってふたつ返事です。
電話切ったあとに「‥‥毎週???」ってなってました。
[糸井]
ははははは(涙)。
[日比野]
えらい場所で引き受けちゃったなぁ、と。
[糸井]
ああ。そりゃ、運だね。
ちゃんと考えたら、断ったんじゃない?
[日比野]
考えてたらね(笑)。
東京で電話受けたら
「スケジュールですか?
ちょっと待ってくださいね」
なんて言って、きっと断ってました。
それが、ニューヨークまで追っかけてきた電話で。
[糸井]
相手はキース・ヘリングだし。
[日比野]
大きい気持ちになってまして(笑)。
テレビの司会なんてやったことないし、どうやってやるのかわからないけども、そんなもん、ニューヨークで勝負することに比べたらちっちぇえ、ちっちぇえ!
[糸井]
最高だね。若々しい!
[日比野]
もう、運命としか(笑)。
それに、糸井さんたちが前にいてくれたおかげで、ずいぶんやりやすい環境になってたし。
[糸井]
オレはずいぶん怒られ役をして、風除けできたと思う(笑)。
[日比野]
そのおかげで、ぼくが20代で出たころは、なんだかウェルカムな感じだったんですよ。
糸井さんたちの世代の人たちは、みんな新しい若いやつが来たぞ、これはおもしろい、って言ってくれた。
こいつ日比野って言うんだよ、ってあちこち連れ回されて、紹介されて。
[糸井]
日比野くんは、絵から来たのもよかった。
[日比野]
ああ、なるほど。
[糸井]
文章出身だと、プライドのあり方がちょっとちがったりして、2つ前くらいの世代の人たちと、もろにぶつかっちゃったりする場合が当時は多かったんです。
だけど、絵からやって来た日比野くんは、ぶつからないんですよね。
(つづきます)
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