[糸井]
教育の現場が複雑になればなるほど、ふつうでいること、自然でいることは、むずかしいかもしれないですね。
自分の自然体がわからなくなっている人も多いんじゃないでしょうか。

[吉本]
いまの先生を見ていると、熱心な人ほどそうですね。
テレビなんかに出てくる模範的な先生のようにどうやったらできるか、なんて考えています。
ですから、「自分なりに自然にやれ」
といわれても、どうしたらいいのかわからないと、熱心な先生は思うでしょう。
でも、僕は、そのあたりのことは経験から、どうすればいいかはわかっています。
何の経験かと問われれば、それは僕がもの書きで、まがりなりにも何十年か食ってるということ──
まぁ、食えないときもありますけど(笑)、食ってるわけで、そこで会得したことが確固として僕なりにあります。
その中でわかったことは、どの職業でも同じことが言えるだろうと思います。
帰するところ、最も重要なことは何かといったら、自分と、自分が理想と考えてる自分との、その間の問答です。
「外」じゃないですよ。
つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
先生だったら「子どもに対して」
ということじゃありません。
子どもに対してちゃんといい授業を見せる、実行するということは主たることではないんです。
人に対して、というのはあとでいいんです。
自分と、自分が理想と考えるもの、そことの内的な問答がいちばん大切なんです。
先生だったら先生なりに
「俺はどうなればいいんだろうか」
と、考えていることが必ずあるはずです。
人になんか、わからなくていいんですよ。
自分だけの心の中に問答も反省も絶えずある、ということが、
「自分そのもの」にとって大切なんです。
問答の道の行き帰りの回数が多くなればなるほど、そこが豊かになります。
それは、最も価値あることです。
先生だけじゃなくて、何の職業であっても、問答をくり返したそのことは、ひとりでに、自然に出てくるんです。
無理なんかちっともしてないところで、完全に出るし、わかります。
子どもは鋭敏だから、なおさらよくわかるんだけど、大人にだってわかられますよ。
自分の中の問答の行き来が豊富になって、自分の中にたまっていくことが、いちばんです。
先生は、子どもに何か教える必要もないし、
「おまえ、こうしろ」なんて言う必要もありません。
問答の道を豊かにくり返している先生が、ただ自然に振る舞っていること、それが子どもにはいちばんいいんです。
その先生は、例えば、子どもにきっとこういう印象を与えるんじゃないでしょうか。
「ああ、この先生はこういう先生で、 そのときのいろんな都合や加減で ゆらぐ人ではないな」
と。

[糸井]
では、悩み多き人ほどよい教師ということでしょうか。

[吉本]
そうですね。
でも、正確には、悩みということだけではないかもしれないです。
人間だから、それぞれいろんなことがあるでしょう。
その人がどういう育ち方をしたか、性格はどうか、そういうことから来る問題ですから、その人固有の問題であって、固有のやり方をすればいいわけです。
(明日につづきます)


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